幻となったEMI録音――唯一残されたハンドリーの《エルガー/交響曲第3番》
バーノン・ハンドリーほど、アンソニー・ペイン完成版《エルガー交響曲第3番》にふさわしい指揮者はいなかったかもしれない。
エイドリアン・ボールトの系譜を受け継ぎ、エルガーの語法を誰よりも深く理解したハンドリーは、この作品をEMIへスタジオ録音する予定であった。しかし病により録音は中止され、その計画は実現しなかった。
そのため、このRTÉアイルランド国立交響楽団との演奏は、ハンドリーが遺した唯一知られている《交響曲第3番》の記録となっている。
その意味だけでも、この映像はエルガー演奏史における第一級の史料である。
しかし、その価値は歴史的意義だけではない。
演奏そのものが、驚くほど完成度の高い名演なのである。
ペインの完成版は、初演以来しばしば「どこまでがエルガーで、どこからがペインなのか」という議論の対象となってきた。
しかしハンドリーの演奏を聴いていると、そんな境界は次第に意味を失っていく。
彼は、この作品を「補筆作品」として特別扱いしない。
あくまでも一つのエルガー作品として、ごく自然に音楽を歩ませる。
そこに作為はなく、「未完成作品を成立させよう」という肩肘張った姿勢も感じられない。
それこそが、この演奏最大の美点である。
第1楽章では、ハンドリー特有の構築感覚が際立つ。
複雑な動機が錯綜するペイン版は、指揮者によっては断片的に聞こえてしまうことがある。
しかしハンドリーは、長大なフレーズを一つの呼吸として統一し、まるでエルガー自身が完成させた交響曲であるかのような自然さを生み出している。
ボールト譲りの「音楽に無理をさせない」姿勢がここでも生きている。
緩徐楽章では、その真価がさらに明らかになる。
ハンドリーは感傷へ流れない。
旋律を必要以上に歌わせることもない。
しかし、その抑制の中から、エルガー晩年特有の孤独と諦観が静かに滲み出てくる。
この静かな精神性は、若い指揮者には容易に到達できない境地だろう。
スケルツォでは意外なほどの切れ味を見せる。
リズムは引き締まり、オーケストラもよく応えている。
決して一流オーケストラとは言えないRTÉアイルランド国立交響楽団だが、ハンドリーの統率によって、作品の輪郭が驚くほど明晰になっている。
優れた指揮者とは、楽団の能力を超えた音楽を引き出す存在であることを、この演奏は証明している。
そして終結部。
ここでハンドリーは、この作品を「未完交響曲」としてではなく、一つの人生の終章として描いている。
音楽は大げさな終末感へ向かわない。
静かに、穏やかに、しかし確かな重みを持って閉じられる。
そこには完成・未完成という区別を超えた、人間エルガーへの深い共感がある。
ハンドリーは、生涯を通じてエルガー作品の紹介に尽力した。
交響曲第1番、第2番、《エニグマ変奏曲》はもちろん、《スターライトエキスプレス》など演奏機会の少ない作品まで数多く録音し、その多くが現在でも第一級の評価を受けている。
だからこそ、この《交響曲第3番》をスタジオ録音できなかったことは、英国音楽録音史における大きな損失と言わざるを得ない。
もしEMIで正規録音が実現していたなら、おそらくこの作品の決定盤の一つになっていた可能性は極めて高い。
そう思わせるだけの説得力が、この唯一の映像には刻み込まれている。
派手さはない。
奇をてらう解釈もない。
しかし、音楽の隅々までエルガーへの理解と敬愛が行き渡っている。
それこそが、ヴァーノン・ハンドリーという指揮者の本質なのだろう。
この映像は、幻となったEMI録音の代用品ではない。
むしろ、ハンドリーがエルガーの最後の交響曲に遺した、かけがえのない「遺言」と呼ぶべき演奏なのである。




