J.S.バッハ(エルガー編曲):幻想曲とフーガ ハ短調 BWV 537

本作品は、J.S.バッハがオルガンのために作曲した《幻想曲とフーガ ハ短調 BWV 537》を、エドワード・エルガーが管弦楽に編曲したものである。1921年に完成されたこの編曲は、純粋な音楽的関心だけでなく、リヒャルト・シュトラウスとの間に交わされた友情と芸術的対話に端を発する。

 

1920年、ロンドンでの再会時、エルガーとシュトラウスは「バッハの《幻想曲とフーガ》の管弦楽編曲を、前半(幻想曲)をエルガーが、後半(フーガ)をシュトラウスがそれぞれ担当する」という約束を交わした。しかしこの約束は、シュトラウスの側によりそのまま忘れられてしまった。やむなくエルガーは、全曲を一人で編曲する決断を下す。結果として生まれたのは、バッハの厳格な対位法とエルガーの後期様式が見事に融合した、壮大な管弦楽作品である。

 

この時代背景として、20世紀初頭にはバロック作品を近代的な大編成オーケストラで装飾的に蘇らせる潮流が存在していた。ユージン・グーセンスによるヘンデル《メサイヤ》の編曲や、ハミルトン・ハーティによる《水上の音楽》編曲などがその代表例である。これらは、原曲の精神を保ちつつ、近代的な響きと大規模な管弦楽法で聴衆の耳目を集めた。エルガーもまたこの流れを意識し、本作品に大胆な音色設計と重厚なオーケストレーションを施している。

 

幻想曲では、荘厳かつ陰影豊かな冒頭主題が金管と低弦により展開され、続く対位法的展開も各楽器群の明確な声部分担により浮き彫りにされている。フーガでは、主題の厳格な提示と展開が、弦楽、木管、金管を駆使した壮麗な建築物のように積み上げられ、クライマックスへと導かれていく。

 

この編曲は単なるオーケストラ版への移し替えにとどまらず、エルガー晩年の円熟した筆致と深い敬意が込められた、ひとつの独立した交響的構築物とみなすべきである。バッハの霊感とエルガーの個性が交差するこの作品は、同時代の芸術潮流の一角を成すと同時に、シュトラウスとの逸話を含む芸術家の友情の記録としても、今日なお聴く者の想像力を刺激してやまない。

日本でのエルガー紹介番組の中では間違いなく最低最悪なテレビ番組

ある日本のテレビ番組で、エルガー編曲による《バッハ:幻想曲とフーガ ハ短調 BWV537》が取り上げられた。貴重なエルガー作品が公共の電波に乗るという点で注目に値するはずだったが、その内容は極めて不誠実、かつ軽薄なものであり、音楽に対する最低限の敬意さえ感じられない、残念を通り越して怒りすら覚える劣悪な放送内容であった。

 

番組では、ある指揮者(この人物も過去「やらかして」くれた要注意人物であるが)がこの作品を演奏し、司会進行を務めた別の指揮者が解説を行っていたが、その語り口は終始、エルガーのオーケストレーションの「奇抜さ」ばかりを面白おかしく取り上げ、あたかもこの編曲が滑稽な笑い話でもあるかのように茶化すばかり。あろうことか、出演者全員がその論調に追従し、作品へのリスペクトなど微塵も感じられない態度で悪ノリを続けていた。司会者は「私はエルガーを愛している」と語っていたが、その言葉とは裏腹に、番組全体からエルガーへの敬意は微塵も感じられなかった。むしろ「エルガー愛」の看板を掲げながら行われた、執拗で悪意すら感じられる冷笑的演出こそが、最も耐え難いものであった。

 

何より問題なのは、この編曲が成立した歴史的背景への無理解と無視である。20世紀初頭、大規模編成によるバロック音楽の再構築はれっきとした流行であり、グーセンスによる《メサイヤ》編曲、ハーティの《水上の音楽》など、当時の名だたる指揮者・編曲家たちが同様の試みに挑戦していた(まさかご存じないわけないだろう)。その潮流に倣い、エルガーも自らの美学と技術をもってこのバッハ作品を現代的に蘇らせたにすぎない。番組ではそうした文脈への言及は一切なく、ただただ表層的な「変な編曲」として揶揄されるだけ。全くフェアではないし、極めて悪質な偏向報道姿勢としか言いようがない。もしかしたら出演者はそのことを言及していたにも関わらず編集で削られたのかもしれないが・・・。何度途中でテレビのスイッチを消そうとしたことか・・。

 

さらに悪質なのは、あたかもエルガーがバッハを軽んじたかのような印象を、無言のうちに視聴者に植え付けようとする編集である。これは、エルガーとリヒャルト・シュトラウスの間で1920年に交わされた「幻想曲をエルガーが、フーガをシュトラウスが編曲する」という友情に基づいた芸術的誓い――その結果としてエルガーが全曲を担うことになった経緯――そうした重要な史実を完全に無視した、稚拙で無責任な番組構成である。
ここは想像することしかできないが、シュトラウスといえば管弦楽の魔術師ともいうべき管弦楽装飾で知られている作曲家である。前半の幻想曲をエルガーが、後半のフーガをシュトラウスが編曲を施す約束がなされた。結果的にシュトラウスがこの約束を失念してしまったためにエルガーが全曲の編曲を仕上げた。つまり、エルガーはシュトラウスが施すであろう管弦楽的厚化粧に自ら合わせるようなスタイルで編曲を試みた可能性があるのだ。それは現代から見たら奇抜に見えるだろう。そういう背景には一切言及しないで、ただ奇抜な編曲という点だけを嘲笑する姿勢がアンフェアでしかないのだ。

 

加えて、「なぜそこで笑う?」と思わず眉をひそめるような嘲笑のタイミングが何度も差し込まれ、最初から最後まで、作品とエルガーへの敬意などどこにも感じられない。口先だけで「リスペクトしている」と語ったところで、その実態が冷笑と揶揄ばかりでは、到底信じることなどできない。この人物の普段の言動から判断するに、他者からの笑いを取るトークに徹しているように見える。「誰かの笑いを取る」という軽薄な理由で、他者を貶める・・・。そういう傾向が見て取れる。本人はそんなに悪意を持っていないのかもしれないが、そんな材料でエルガーが使われたのではたまったものではない。面白いと感じているのは言っている本人だけで、傍から見たら不愉快なだけで面白くもなんともない。そのこと以外にもエルガーの好んだ表記Nobilmenteに関して「本当に高貴な人はNobilmenteなどという言葉は使わない」などとエルガーを侮辱するような発言を繰り返している。エルガーに敬意を払い、彼の魂の言葉に耳を傾ける者ならば、そんな表現は口が裂けても使えないはず。内容・姿勢ともに、日本でのエルガー紹介番組の中では、間違いなく最低最悪なものであった。この番組を観たエルガー協会の会員仲間とも話したのだが「これは恥ずかしくて、とても本国には見せられないね」という意見で一致した。

 

日本でエルガー作品が取り上げられる機会は極めて少なく、だからこそ一回一回の紹介には責任が伴うべきだ。その貴重な場を、無知と不誠実さにまみれたこのような番組が汚したことは、日本のクラシック音楽メディアにとっての恥辱である。
番組宛にはかなり強めの論調で抗議したが、もちろん一切何のリアクションもない。

 

本件は、エルガーという作曲家に対して、そしてクラシック音楽という文化に対して、あまりにも無礼で軽薄な一例として、決して見過ごしてはならない。

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