エルガーとパリー
エドワード・エルガーとヒューバート・パリーの関係は、英国音楽史の中でも稀有な「対等な敬意に基づく穏やかな同時代性」の一例といえる。両者の間に、スタンフォードとのような明確な衝突もなければ、ランバートとのような審美的断絶もない。むしろ、パリーは終始エルガーに対して好意的かつ高い評価を示しており、それゆえに劇的な逸話には乏しい。しかし、その背後にある両者の芸術観と社会的位置づけの差異に目を向ければ、より豊かな相関が浮かび上がる。
パリーは英国音楽界の制度的再興を支えた中心人物であり、王立音楽大学(RCM)の教師・後には校長として、教育と組織運営を通じてヴィクトリア朝以後の英国音楽の基礎を築いた。その意味で、彼は「英国音楽の父」と呼ばれるにふさわしい存在である。対してエルガーは、制度の外から現れ、ほぼ独力で英国音楽を国際水準にまで押し上げた孤高の実践者であった。社会的階層や宗教(エルガーはカトリック)という点でも、二人は明確に異なっていたが、パリーはエルガーの成功を妬むことなく、その音楽的力量を真摯に認めた数少ない同時代人の一人である。
エルガーの《エニグマ変奏曲》(1899年)を初めて聴いたパリーは、友人宛の手紙でその感銘を隠さず語っている。また、エルガーが1905年にバーミンガム大学の教授に就任した際、パリーは心から祝辞を述べ、王立音楽大学の一部から向けられた冷ややかな視線とは対照的な立場を取った。さらに1911年にエルガーが《交響曲第2番》を発表した際には、「これこそ彼の最高傑作だ」と私的に語ったとも伝えられる。
ただし、両者の音楽が目指す世界は決して同質ではない。パリーはしばしば「知性の作曲家」と称され、構造的均衡と精神的重厚さを尊ぶ新古典的志向の作曲家であった。彼のオラトリオ《ヨブ》や合唱作品《Blest Pair of Sirens》には、宗教的敬虔さと倫理的理念が込められている。対してエルガーは、パリーの構築性に対し、より情動的でドラマティックな語法を展開し、ときに神秘主義や心理的深層をも追求した。《ゲロンティアスの夢》や《使徒たち》などに典型的なように、彼の音楽は内面の葛藤や救済への希求を、激情を伴って音化する。
両者はまた、「英国音楽とは何か」という問いに対する異なる回答を提示している。パリーはイギリス古楽やドイツ・バロックの伝統を踏まえた道徳的・市民的美徳の象徴として音楽を位置づけた。一方、エルガーはドイツ後期ロマン派の語法を用いながら、それを「英国的情熱」と結びつけることで、より個人の内奥と共鳴する音楽を模索した。
このように、両者の関係には競争も対立もなく、むしろ相互補完的な芸術的緊張が存在していた。もしパリーが1918年のスペイン風邪によって没せず、エルガーの晩年までその姿をとどめていたならば、英国音楽の歩みはより調和のとれたものになっていたかもしれない。だがその分、この二人の間に横たわる「敬意に満ちた距離」は、かえって深く、歴史の中で静かに輝いている。