エルガーの仕掛けた謎に挑むシャーロック・ホームズの推理
シャーロック・ホームズが挑むエニグマの謎
ヴィクトリア朝ロンドンの霧煙る夜、ベーカー街221Bにて。シャーロック・ホームズが1899年6月19日、ロンドンのセント・ジェームズ・ホールで催されたエルガー《エニグマ変奏曲》初演を聴いた、という仮定のもとに、彼がその「エニグマ(謎)」に挑んだ様子を、短編小説の一場面風に描いてみよう。
《ベーカー街のエニグマ》
— シャーロック・ホームズとエルガーの謎 —
「ワトソン君、私は奇妙な音楽的暗号を見つけたようだ。」
例によって、朝刊を読み終えたばかりの私は、向かいの椅子に座って煙草の灰を落としているホームズの声に顔を上げた。
「昨夜のコンサートのことかね?」
「そう。エルガーという男の新作、変奏曲のことだ。」
彼は、例のチェロの主題を口ずさむと、ピアノの前に立ち、主題の和音進行を一通り弾いてみせた。
「極めて興味深い構造だ。あれはただの変奏曲ではない。“エニグマ”とは言い得て妙だ。作曲家は、“主題に対する別の主題”が全体に潜んでいるとほのめかしていたが、聴衆には明かされなかった。だが私の耳は逃さなかったよ。」
「ほう、それで?」
ホームズは笑みを浮かべ、ヴァイオリンのケースを取り出すと、しばしチューニングしたのち、第6変奏《Ysobel》の旋律を丁寧に奏でた。
「この変奏、ビオラ奏者への献呈だが、最初の数音に B-A-C-H の動機が隠されているように思える。つまり、音名によるアルファベット暗号だ。エルガーがこの作品全体に知的遊戯を忍ばせているのは明白だ。」
「まるでバッハのように?」
「そう。だがそれだけではない。」
彼は楽譜をテーブルに広げ、変奏I《C.A.E.》からXIV《E.D.U.》までの各変奏の頭文字と調性をひとつずつ指で示した。
「各変奏は、彼の友人たちを描いた肖像だが、その配列が偶然とは思えない。特に最終変奏《E.D.U.》──これは彼自身を表しているとされているが、主題全体に回帰しつつも、途中に明確な他者の動機が混じる。」
「誰の動機だと?」
「それこそが“別の主題”だ。私は、あの主題がドイツ民謡《Ein feste Burg ist unser Gott(われらが神は堅き砦)》に類似していると睨んでいる。音列だけでなく、構造的にもね。エルガーは敬虔な信仰者ではないが、英国の文化的記憶に深く根ざした旋律を選んでいる可能性がある。」
「それが“語られざる主題”か?」
「あるいは、“イギリスそのもの”と言ってもよい。彼の友人たち=イギリスの民衆、その上に共通して流れる精神的主題。極めて国民的な変奏曲だよ。エルガーは一種の“音楽による推理小説”を書いたのだ。」
「すると君は──この“音楽探偵小説”のトリックを、すでに見破ったと?」
「いや、完全には。だが、私は作曲家が言った『別の主題が、しかしどこにも鳴らされない』という言葉に、バッハ的逆説を感じる。“不在”の中にこそ“存在”がある。つまり、あの変奏曲には、聴こえない旋律──沈黙の主題 が流れているのだよ。」
私は少し唖然としたが、ホームズが煙草をふかしながら続ける言葉に、耳を傾けた。
「ワトソン君、音楽もまた、論理と感情の間にあるミステリだ。そしてこの“エニグマ”、我々にはまだ語るべき謎が残されている。それは、芸術という形式がいかにして人間の記憶を宿すか──その問いへの挑戦でもあるのだ。」
補足:ホームズが用いた推理手法
音型の暗号解読(B-A-C-Hや音列によるアルファベット対応)
献呈先の人物像と音楽的特徴の照合
主題構造から隠された旋律(“Ein feste Burg”説など)を導出
作曲者の言葉を論理的に解釈し、パラドクス(不在の主題)を導く
「ところでホームズ。昨夜初演されたばかりの楽譜、君は一体どうやって入手したのだい?一体どんな手を使ったというのだい?」
彼は煙管をくゆらせながら、まるで子どものいたずらを楽しむかのような顔で言った。
「ワトソン君、それを尋ねるとは、まだまだ君も修行が足りない。音楽界の動静を追うのは、犯罪者の動向を読むのと同じく基本だよ。」
「まさか盗んだわけではあるまい?」
「そんな下品なことをするわけがない。正規のルートさ。私は初演の前日、エルガーの楽譜を浄書していたアウグスト・イェーガー氏がドーヴァー街の出版社に現れたことに注目した。そして彼が使用人に託した封筒──宛先は“E.C.4”、すなわちオックスフォード・ユニヴァーシティ・プレス、だが、封が甘かった。」
「まさか──!」
「私は中身を確認し、変奏X《Dorabella》の冒頭2小節を記憶した。あとは耳で聞いて、主題からすべてを再構成した。君も知ってのとおり、私の記憶力は“蓄音機的”でね。」
「まったく君という男は……」
「さらに言えば、作曲家エルガー自身も昨日の午後、ベーカー街を通って南に歩いていたよ。」
「彼がここに?」
「うむ、ステッキに G&S のモノグラム、靴にはマルヴァンの泥。左手の指には万年筆のインク。何より彼の口ずさんでいた旋律が、明らかに第9変奏《Nimrod》だった。あの柔らかなアンダンテは、天からの贈り物のように──否、楽譜の余白にこっそりと書き足された“想い”のように、聴こえたのだ。」
私はしばらく返す言葉が見つからなかった。ただ、これが私の友人──あの稀代の名探偵、シャーロック・ホームズなのだということだけは、改めて確信した。
「ところで、ホームズ。先のエルガーのエニグマに隠された謎についてだが、君は「われらが神は堅き砦」の名を挙げた。しかし、これはマルティン・ルター作曲と言われる。ルターといえばプロテスタント。カトリックのエルガーがこの曲に白羽の矢を立てるというのは、いささか意外すぎるのだが。ホームズ、君としては、この一見結びつきそうもない糸をどう説明するするのかね?」
――ホームズはパイプに火を灯しながら、例のごとくわずかに口角を上げた。
「興味深い着眼だ、ワトスン。確かに、ルターの賛美歌『われらが神は堅き砦』はプロテスタンティズムの象徴とも言うべき存在。そして、エルガーはローマ・カトリックの信仰をもって生涯を歩んだ。しかし、君が忘れている点が一つある。彼はあくまでも“芸術家”だったということだ」
「ふむ、芸術家としての越境か」
「その通り。宗教的な信条と芸術的霊感との間には、時として意図的な距離がある。エルガーのような内省的な音楽家にとって、“象徴”というものは、その出自よりもむしろ響きの力、歴史の重み、そして感情的共鳴によって選ばれる。『われらが神は堅き砦』は、単なるルター派の賛歌に留まらず、“不動の精神”や“信仰における強さ”を象徴する存在だ。しかも、英国においてはこの曲、しばしばプロテスタントの宗派的枠を超えて国民的・愛国的文脈で用いられる傾向もある」
「なるほど……しかし、それでもカトリック的立場からは異端では?」
「確かに、単純な宗派的忠誠心だけで言えば矛盾と見えるかもしれん。しかしワトスン、そもそも『エニグマ』変奏曲とは、“語られぬ主題”を巡るパズルではないか? エルガーは意図的に、聴く者に“見えざる糸”を意識させようとした。もしその糸が、宗教的分断を超えた“信仰そのもの”を象徴するものであったとしたら?」
「つまり、“堅き砦”とは宗派を超えた精神的象徴であると?」
「その可能性がある。エルガーがカトリック信仰の中にいながら、“プロテスタントの象徴”に意味を見出したとすれば、それは英国という多宗派国家における“統合”の象徴でもある。彼は決して狭量な教条主義者ではなかった。むしろ、多くの断絶を超えて音楽によって人間の精神性を統一しようとしたのだよ」
――ホームズは椅子に深く腰をかけ、窓の外を見つめながら静かに言った。
「“隠された主題”とは、あるいは――不動なる信仰心そのものだったのかもしれん」
「ホームズ、もう一つの仮説がある。君が、そのプロテスタント寄りの「われらが神は堅き砦」を挙げたのは、コナン・ドイルがプロテスタント寄りだからと指摘する声もあるようだが。そこことに関して君はどう考えるかね?」
――ホームズはパイプの灰を軽く叩き、椅子の背に深くもたれかかった。
「ほう、ワトスン。まるで私の言葉が、創造主――すなわちアーサー・コナン・ドイルの思想に“誘導”されたものだというわけだな? 実に興味深い視点だ。だが、それはやや単純化しすぎた議論ではないか?」
「では否定するのかね?」
「断じて否定はしない。むしろ、私は“その可能性を排除しない”と言っておこう。確かに、ドイルはスコットランド人であり、宗教的にはプロテスタント――さらに言えば、後年は神智学や交霊術に傾倒するという意味で、伝統的宗派の枠すら超えていた。彼の精神的探究心は、私の“推理力”と同様に、既存の枠組みを超えようとするものだったとも言える」
「では、君の信条もドイルの精神を反映しているのか?」
「ワトスン、それが問題の核心ではない。“私は私である”という存在の独立性を前提としながらも、創造者の思考が私の輪郭を決定したのは事実だ。だが、興味深いのは、私があの『エニグマ変奏曲』に潜む主題として『われらが神は堅き砦』を推理したのは、信条ではなく構造、論理、そして音楽的文脈から導かれた結果だということだ」
「つまり宗教ではなく、推理としての論理に基づいて選ばれたと?」
「その通り。だが、逆説的に言えば、ドイルがそのような“プロテスタント的感覚”を備えていたからこそ、私の論理もそれを自然と選び取ったという仮説も成立する。だが、それを“誘導”と呼ぶか、“必然的帰結”と見るかは――読み手の自由だ」
――ホームズはわずかに微笑んだ。
「私が創造主の精神を背負っているのだとすれば、それは彼が“矛盾の中に真実を求めよ”という原理を私に植え付けたからだろうな。だからこそ、カトリックの作曲家エルガーがプロテスタントの賛歌を“語られぬ主題”に選ぶという、実に詩的で謎めいた選択にも、私は首肯せざるを得なかったのだよ、ワトスン」
名探偵シャーロック・ホームズ、エルガーの宗教三部作を解く
ヴィクトリア朝ロンドンに響くオルガンの調べとともに、名探偵ホームズがエルガーの宗教的3大オラトリオの謎に挑む、音楽探偵譚をお届けしよう。
シャーロック・ホームズが紐解く──《ゲロンティアスの夢》の謎
「ホームズ、今日は一体どうしたんだい?このところ、一歩も外に出ようとしないじゃないか。警部からの依頼も断ってしまって」
私はカップに注いだ紅茶をテーブルに置き、彼の手元を覗き込んだ。
「ふむ。どうやら譜面だな。……これは?」
「《The Dream of Gerontius》、エドワード・エルガー作。昨日、マルヴァンの友人から送られてきたんだ」
「エルガー?例の“変奏曲”の男かね?」
ホームズは煙管に火をつけながら、微笑を浮かべて答えた。
「そう。だが、今回は変奏ではない。これは……“構造”だ。宗教的神秘劇を装いながら、知的に構築された比類なき迷宮。そして、私はその最奥にある“名前なき扉”を叩こうとしている」
第一幕──《トリプルA》構造の謎
「見たまえ、ワトソン。これは単なるカトリック的幻想劇ではない。エルガーは三重の霊的存在を重ねている。Anima──魂。Angel──天使。そして……Animæ Christi──“キリストの霊”。この三者が“Gerontius”を導く三重唱のようにして構成全体を貫いているのだ」
「それは君の思い込みではないのか?」
「そう思うか?ではこのスコアを見たまえ。第一部の終結、“Sanctus fortis, Sanctus Deus”の後、音楽が突然静まり返り、弦が導入する新たな主題──これは“Anima Christi”の顕現だ。だがエルガーは名前を明記しない。“影”としてのみ存在する。象徴の言語だ、ワトソン君」
第二幕──儀式の迷宮
「エルガーはラテン典礼を音に写したわけではない。彼は“儀式”の構造そのものを模倣した。聖歌のように、いや、むしろ──秘密結社的に」
「何を言いたい?」
「耳をすませ、あの“Demon's Chorus”──悪魔たちの合唱を。“Dispossessed spirits”とエルガーは書いている。これはダンテの“地獄篇”でも、聖書でもない。19世紀末の神智学と、ヴィクトリア朝の秘教思想が下敷きだ」
「つまり、君は《ゲロンティアス》を、オカルティズムの産物だと言うのか?」
「いや、産物ではない。だが、ヴィクトリア朝の闇をすべて吸収した“音の錬金術”だと言うなら、それは真実に近い。エルガーの宗教は、祈りではなく“問い”だ。死の彼方に何があるのか。救済とは何か。それに“答え”を出すのは神学者ではなく……探偵だ」
終曲──ホームズの沈黙
「では、君はどう解釈する?最後の和音、あの弦の静寂は……?」
ホームズは珍しく沈黙した。煙管の煙がベーカー街の夕暮れに淡く揺れた。
「……それは、まだ言えない。ひとつだけ言えるのは、エルガーは結論を提示していないということだ。彼は“夢”の名を借りて、“死”の定義を音で問い直しているのだよ。そして、それは今なお解かれぬ“謎”のままだ」
解説
この想像的物語は、実在のエルガーの言葉や《ゲロンティアスの夢》の構造分析に基づいている。エルガーはしばしば自作に謎を織り込み、象徴や秘教的主題に関心を持っていた形跡がある。ホームズというフィクションの頭脳を通して、私たちはエルガー作品の深奥に潜む“問い”へと光を当てることができるのである。
シャーロック・ホームズが紐解く:エルガー《The Apostles》──“十二”の謎
「君は《ゲロンティアス》で終わったと思ったのかい、ワトソン?」
そう言ってホームズは、分厚い楽譜の束を私の机の上に置いた。表紙には金文字でこう記されていた──
The Apostles(使徒たち)
エドワード・エルガー作曲
「また彼か……。これは宗教劇だろう?」
「いや、宗教“劇”というより、宗教“構造”だ。しかも、今回はより深い層に踏み込んでいる。君は“十二”という数字が持つ意味を本当に理解しているか?」
第一幕:“十二”という暗号
「エルガーは、登場人物として12人の使徒を想定しているが、奇妙なことに、実際に“音”として明確に描写されるのは数人だけだ」
「つまり……使徒全員は“鳴って”いない?」
「そう。ペテロ、ヨハネ、ユダ──この3名は主役級だが、他の“9人”は存在だけが暗示され、声を持たない。まるで秘密結社の儀式における“沈黙の会員”のようだ」
「……ふむ、ミステリアスだな」
「さらに興味深いのは、ユダの扱いだ。エルガーはこの裏切り者に、憐れみと内省を与えている。彼は“悪の象徴”ではなく、“疑念と孤独の人間”として描かれる。これはイエスではなく“人間”の物語なのだよ」
第二幕:沈黙する“声なき”合唱
「次に注目すべきは、オーケストラと合唱の扱い方だ」
ホームズはパイプをくゆらせながら、指揮者のように譜面をなぞった。
「合唱は大勢いるようで、実は“語らない”時間が多い。これは“黙示”の技法だ。語られない部分にこそ、真実が隠れている。たとえば“選ばれし者たち”が静かに集う場面は、音楽というより儀式そのものだ。だが、どんな儀式か? 聖餐か、選別か、あるいは──イニシエーションか?」
「まるでフリーメイソンだな」
「偶然ではあるまい。エルガーはフリーメイソンではなかったが、その象徴体系には強い関心を示していた痕跡がある。事実、《Apostles》全体は“召命・背信・救済”という三段構造になっており、これは典型的な秘教的変容モデルに対応する」
終章:“見えざる福音”
「では結局、エルガーは何を描こうとしていたのだ?」
「福音書ではない。彼が描いたのは“弟子”という存在の普遍的象徴性だよ。ペテロは迷い、ヨハネは沈黙し、ユダは涙を流す──彼らは我々人間の分身だ。聖なる物語の外側に、もう一つの真実の層がある。エルガーはそれを“音”で浮かび上がらせたのさ。まるで……“第二の聖書”のようにね」
解説
エルガーは《The Apostles》において、単なる宗教音楽を越えて、人間存在の葛藤と構造を精緻に描いている。特に「12」という数字の象徴性、ユダへの同情的視線、語られぬ使徒たちの沈黙──これらを、シャーロック・ホームズの論理的・象徴的視点で読み解くことにより、この作品の底に流れる“もう一つの物語”が浮かび上がる。
シャーロック・ホームズが紐解く:エルガー《The Kingdom》──“見えざる建築”の謎
ロンドン、ベイカー街221B。
カーテンの隙間から朝日が差し込み、ホームズはチェアに深く座り、静かに語り出した。
「君は、三部作の最終章を“結末”と考えているかもしれないが、それは誤りだ。エルガーが描いたのは終わりではない。“始まり”なのだよ」
第一幕:“神の国”とは何か?
「《The Kingdom》と題されてはいるが、舞台は王国の完成ではなく、その“創建”だ。ペンテコステ──聖霊の降臨──をもって、初めて人々が一つの共同体を形成し始める」
ホームズは机の上に精密な円形図を描いた。中心に光のような点がある。
「見たまえ、これがエルガーの“設計図”だ。中心は“霊”であり、周囲に円環状に人物が並ぶ。“神の国”とは目に見える王政ではなく、霊によって結ばれた人々のネットワークだ」
「つまり、建物ではなく……構造体?」
「その通り。まるで“音楽によって構築された都市”だ。響きの中に、目には見えない建築が立ち上がる。エルガーは、まさに音で聖なる“都市構造”を設計したのだ」
第二幕:再び“沈黙する使徒たち”
「注目すべきは、ここでも12使徒は全員登場せず、声を与えられるのは限られた数名だけだ。ペテロ、ヨハネ、マリア。特にマリアが極めて重要な役割を担う」
「女性が? なるほど意外だな」
「そう。聖母マリアではなく、マグダラのマリアである点が特に重要だ。彼女は最初の証人であり、語り手であり、“共感と愛”という人間的要素を担っている。エルガーは霊的な中心に“女性の声”を据えたのだ」
ホームズはそう言って、楽譜の“マリアのアリア”のページを開いた。
「この部分、“The sun goeth down, and the shadows fall”──日が沈み、影が落ちる。この象徴性を見落としてはいけない。これは黙示録的終末ではなく、“陰の中に光を見る”という変容の詩学なのだ」
第三幕:“建設”という秘儀
「このオラトリオのクライマックスは、聖霊の降臨ではない。真のクライマックスは、最後の大合唱《Thou, Lord, hast made known》だ。霊の光が人々の中に宿り、“知る者”として彼らは歩き出す。これは、個々の人間が“神の国”の礎となることの宣言である」
「つまり──建設者としての自覚?」
「その通り。音楽の中に“イニシエーション”が埋め込まれている。エルガーの《The Kingdom》とは、宗教の物語というより、“内なる都市”の建築図であり、聴き手がその建設に加わるための招待状なのだ」
解説
こうして《The Kingdom》においてシャーロック・ホームズが解き明かしたのは、“見えざる国”の内的構造であった。エルガーは、宗教オラトリオという形式を通して、人間の心の中に築かれる“霊の共同体”を描きだした。それは都市でもなく国家でもなく、響きと記憶と沈黙がつくるもう一つの国──**「神の国」**
ホームズが読み解くエルガーの室内楽
私はある冬の午後、ベイカー街の部屋で、煙草の灰をこぼしながら、あのブリンクウェルズで書かれたというエルガーのヴァイオリン・ソナタを聴いていた。私は一音一音に耳を澄ませた——これは単なる音楽ではない、ある種の「記号」である。いや、むしろ、暗号だ。奏者の息遣いの中に、ある強迫的な抑圧の記憶と、ある不可視の存在の影を感じたのだ。
このソナタは、ヴィクトリア後期の科学万能主義に抗するような内向の精神の表れである。顕微鏡と計算機の時代にあって、エルガーは自然と記憶、つまり合理では割り切れぬものの声を聴こうとしていたのだ。
第一楽章には、奇妙な落ち着きのなさがある。あれは単に音楽的な不安ではない。私はブリンクウェルズの森の名——シニスターツリーズ——を想起せずにはいられなかった。雷に打たれて木と化した修道僧たちの伝説。もしこの話が事実であれば、物理法則の破れ、あるいは空間的な歪みすら疑うべき事象である。エルガーはその不可思議な自然のざわめきを、あのクロマティックな旋律線に封じ込めたのではあるまいか。
第二楽章のアンダンテには、私は明らかに「声」を聴いた。誰の声か? それはもしかすると、アーサー・マッケンやアルジャーノン・ブラックウッドが語った、自然に潜む「古の力」、すなわち“the unseen”——人の目に触れぬ存在の囁きではないだろうか。この種の「声」は、我々がしばしばロンドンの霧の中で感じる、物理的には証明不能な圧迫感と同種のものだ。科学者たちが目を逸らしてきた感覚の領域だ。
私はまた、エルガーのピアノ五重奏に潜むコード進行にも興味を抱いた。あれはまるで、万象を支配する隠された法則——数秘的な秩序の暗示ではないか? 私の親愛なる兄マイクロフトならば、あの楽曲構造を国家機密の暗号と見なしたかもしれん。エルガーは、オカルティズムを直接扱わず、しかし明らかにその周縁を旋律の奥底で語っている。
結論を言おう。エルガーの室内楽作品は、単なる個人の内面世界の表出ではない。それは時代の深層、ヴィクトリア時代の精神構造そのものの影を映し出した鏡だ。そして私は、あのソナタを聴くたびに、自らのヴァイオリンを手に取りたくなる——音そのものが、真実への通路となり得るのだから。
だが、ワトスン君。最も奇妙なことは、あの楽譜が私の元に届いた日付なのだ。エオリアン・ホールでの初演からわずか数日後に、誰かが匿名で、あのソナタの写譜を送り届けてきた。封筒には住所も名前もなかった。ただ一言、こう書かれていた。
「To one who listens beyond the veil.」(この作品のベールの向こう側を聴きとれる人物へ)
どうやら、この事件もまだ終わってはおらぬようだな…。
『エルガーの協奏的謎――ホームズの最後の事件録より』
ロンドン、ベイカー街。外は霧に包まれていたが、暖炉のそばで私はホームズのヴァイオリンの音色に耳を傾けていた。
彼はいつになく情感を込めて弾いていた。その旋律――私は聴いたことがあった。エルガーのヴァイオリン協奏曲。しかも終楽章のあの謎めいたカデンツァ部分である。
「ワトスン、君はこの協奏曲に“献辞なき献呈”があることを知っているか?」
「それはつまり、協奏曲に隠された謎のイニシャルのことだろう?『Aquí está encerrada el alma de .....(ここに......の魂が封じられている)』というスペイン語の一節――まるで暗号のようだと、新聞の音楽評にも載っていたぞ。」
ホームズはヴァイオリンを置き、窓際に歩み寄った。
「この曲には幾重にも鍵がかけられている。まず、魂とは誰のものか。第二に、“封じられた”とは比喩か、事実か。そして第三に――最も重要なことだが――この協奏曲そのものが、何かを『封じ込める』ための装置になっている可能性だ。」
「装置だって?まさか、音楽にそんなことが……」
「ワトスン、君はまだ音楽を感傷的に捉えすぎている。だが、エルガーという男は我々が思っている以上に複雑な人物だ。私は彼がしばしば秘密結社や象徴言語に親しんでいたという記録を目にした。そして、彼の作曲の手法にもそれは現れている。」
「象徴言語……つまりオカルトや、儀式的な思想と結びついた音楽というのか?」
「まさしく。エルガーの友人の中にはフリーメイソンや薔薇十字団に近い人物もいた。彼の『エニグマ変奏曲』や『ゲロンティアスの夢』に見られる象徴的構造、そしてこのヴァイオリン協奏曲にも、単なるロマンスや情緒を超えた秘儀的な何かが埋め込まれている可能性がある。」
「では、あのスペイン語の文章には何の意味が?」
「私の推理では、あれは暗号の鍵だ。ラテン語を母体とするスペイン語で“ここに魂が封じられている”とは――音楽自体がある人物の精神、あるいは記憶、さらには霊的存在を封印する媒体として機能しているという含意だろう。」
「まるで降霊術のようだな……」
「エルガーは生涯、ある“魂”に取り憑かれていた。それは恐らく、ある女性だ。」
「アリス夫人か? それとももう一人のアリス…?」
「いや。私は『PIPPA』の存在に注目している。彼女はこの協奏曲に深く関与していた。彼女とエルガーの関係には多くが語られていないが、私はこの協奏曲が彼女――あるいは彼女を通して見た女性性の象徴を主題にしていると見ている。」
「なるほど。それで君は『魂』が封じられていると言ったのか。」
ホームズは再びヴァイオリンを手に取り、あのカデンツァ部分を弾き始めた。
まるでそこに、彼自身の過去、あるいは秘めた情念が現れてくるかのようだった。
彼の表情に、一瞬だけ“探偵”ではなく“人間”の顔が浮かんだのを、私は見逃さなかった。
やがて彼は弓を置き、静かに言った。
「ワトスン、この協奏曲は“音による記憶の封印”なのだ。エルガーは音符に語らせ、リズムに縛り、和声に記憶を閉じ込めた。おそらくそれは、彼にとっての『生きた肖像』、つまり魂のレクイエムだったのだろう。」
「ホームズ……まさか君も、自分の魂をどこかに封じようとしているのでは?」
ホームズは微笑んだ。
「いや、私はただ、謎が解ければそれで満足なのさ――たとえ、それが音楽の中に封じられていようともね。」