エド・デ・ワールトとエルガー
静謐なる情熱の解釈者
エド・デ・ワールト(Edo de Waart)は、オランダを代表する指揮者として長きにわたり世界各地の主要オーケストラを率い、誠実かつ明晰な音楽作りで高く評価されてきた。その指揮は一見控えめで派手さを避けるが、作品への敬意と構築美への感覚において比類なきものがある。エルガー作品への取り組みもまたその例外ではない。
■《ゲロンティアスの夢》と交響曲第1番(ロイヤル・フランダース・フィル)
デ・ワールトがロイヤル・フランダース・フィルハーモニー管弦楽団(現アントワープ交響楽団)を指揮して録音した《ゲロンティアスの夢》と《交響曲第1番》のカップリングは、正式に商業録音としてリリースされており、エルガーへの真摯なアプローチを知るうえで極めて貴重な記録である。
この録音において、彼はエルガーの音楽を、大仰さではなく精神的な深みと構築の美を通じて描いている。《ゲロンティアスの夢》における宗教的・形而上的側面を、過剰な感情表現に頼らず、静かなる祈りのように響かせる姿勢は、バルビローリとは対照的ながら、作品の核心に真っ直ぐに届いてくる演奏である。
■《チェロ協奏曲》:マリー・エリザベート・ヘッカーとの名演
さらに近年、デ・ワールトはドイツの名手マリー・エリザベス・ヘッカーをソリストに迎え、エルガーの**《チェロ協奏曲》**を録音している(アントワープ交響楽団との共演/Alpha
Classicsレーベル)。この録音は、深い陰影と哀愁に満ちた作品の持つ抒情性を、繊細で内省的な表現によって最大限に引き出している。
ヘッカーの、技術におぼれない精神性の高いチェロに対して、デ・ワールトは決して主張しすぎず、しかししっかりとした構築的な枠組みで彼女を支える。特に第3楽章から第4楽章にかけての移行部では、呼吸の合致と精神的共鳴が非常に高く、まるで1つの魂が2人の演奏家に宿っているかのような感動を呼ぶ。
海賊盤での《カラクタクス》
エド・デ・ワールトの2000年頃にはシドニーやアムステルダムでエルガーの《カラクタクス》を盛んに取り上げている。オランダ放送管弦楽団との《カラクタクス》が海賊レーベルで一時出回った。カップリングがゲルギエフによるベルリオーズの《ロメオをジュリエット》というマニアなら放っていけないカップリングだった。レーベル名すら書いていない文字通りの海賊盤である。しかも2枚目にロミジュリの後半、3枚目にロミジュリの前半が収録されているという変わったディスク。
さらにこのワールトの《カラクタクス》、筆者が1997年にシドニーを訪れた際にワールトが偶然ちょうど《カラクタクス》を指揮していたのをABCラジオが生中継しており、その演奏を視聴している。その時の演奏に感銘を覚えていたので、このディスクが出回った時には狂喜したものだった。蛇足ならがら、この時のエピソードで、この中継を担当していたアナウンサーが最初から最後まで《カラクタクス》ではなく《ゲロンティアスの夢》と読み上げていた。おそらく台本が《ゲロンティアスの夢》になっていたのであろう。もしかしたら本当は《ゲロンティアス》の予定だったのが《カラクタクス》に変更になったものの、ラジオの台本までは修正できていなかったのかもしれない。そんなことがあったから余計に思い出に残っている。
■「英国音楽=英国人」という枠組みを超えて
エルガーという作曲家は、しばしば「英国的なるもの」の象徴とみなされ、演奏者も英国人指揮者に限られるかのような印象を持たれることがある。しかし、エド・デ・ワールトの演奏はそのような固定観念を静かに打ち破る。作品への誠実な共感と、過剰な色付けのない造形美は、エルガーの音楽が国籍を超えて生き続けるべき普遍性を持つことを示している。
地味ながら確かな手腕でエルガーの作品を広く世界に伝えてきたデ・ワールトは、「エルガーを理解した非英国系指揮者」の最も誠実な代表のひとりといえるだろう。