遂につかんだ名声

マゼールの海の絵

この1979年11月20日のジャネット・ベイカーとロリン・マゼール、フィルハーモニア管弦楽団による《海の絵(Sea Pictures)》のライヴ演奏は、YouTubeにアップされたことによって長らく埋もれていた一夜の記録が再び光を浴びることになった。マゼールのエルガー作品への関与といえば、**リン・ハレルとのチェロ協奏曲(1980年録音)**くらいしか広く知られていなかったため、この映像・音源の登場は大変貴重である。かつてプライベート盤のような扱いで世に出たことはあったようであるが。

 

■ベイカーの《海の絵》:名匠バルビローリとの録音を凌駕するか?

ジャネット・ベイカーにとって《海の絵》はまさに十八番のひとつであり、既に**バルビローリとの名演(EMI盤)**が事実上の決定版とされている。しかしベイカーは、この作品をバルビローリ以外にもジェームズ・ロッホラン、バーノン・ハンドリー、ゲオルク・ショルティ、そして今回のロリン・マゼールなど、複数の指揮者と共に繰り返し演奏してきた。どの演奏でも共通して言えるのは、ベイカーが完全に音楽の中心に君臨しているという点である。

 

今回のマゼールとの共演でもその構図は明確で、マゼールでさえもベイカーの表現意志を尊重し、己の色を抑えて寄り添う姿勢が感じられる。マゼール特有の構築的で理知的な音楽運びは確かにそこにあるのだが、ベイカーの深くしなやかな語り口、英語のディクションの明晰さ、音楽と言葉を融合させた絶妙なフレージングの前に、あくまで指揮はサポートに徹する。

 

■マゼールの抑制と意外な謙虚さ

マゼールという指揮者は、精緻な構成力と完璧主義、時に過剰とも取れる自己主張で知られている。マーラーやリヒャルト・シュトラウスではその個性が強烈に現れるが、この《海の絵》ではむしろ控えめかつ端正なエルガー解釈を示している。

 

例えば「Where Corals Lie」では、マゼールがテンポを絶妙に抑えて、ベイカーの声が柔らかく浮かび上がるような伴奏を展開しており、ここにあるのは「マゼールのエルガー」ではなく「ベイカーの世界を支えるマゼール」である。

 

この構図は、指揮者にとってはなかなか受け入れがたいものであるはずだが、そこにマゼールの職人としての音楽家魂が感じられ、逆説的に非常に好感が持てる。

 

■「我」を抑え、作品と歌手に従った稀有な演奏

この演奏は、ベイカーという巨星が放つ重力圏に、あのマゼールさえも吸い寄せられ、身を委ねた瞬間を捉えている。エルガーの音楽が持つ英国的品格と抑制された情熱を、ベイカーの声が完璧に体現しており、それにマゼールが共鳴することで、演奏全体が内的な深さと均整の取れた構築美に包まれている。

 

ベイカーのエルガー芸術の一端を再確認するという意味でも、またマゼールの柔軟な音楽家としての一面を知るという意味でも、非常に意義深い記録である。商業録音ではないが、この演奏はエルガー愛好家にとって必聴の音源であり、再評価に値する。

 

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