再びロンドンへ

《ファルスタッフ》:人間喜劇の深奥を描く交響的習作

 

エルガー《ファルスタッフ》Op.68 は、シェイクスピア作品に登場する放埓な騎士サー・ジョン・ファルスタッフの生涯と精神世界を描いた、交響詩的性格を持つ「交響的習作」である。1913年に作曲され、エルガー後期のオーケストレーション技法と心理描写の成熟が結晶した傑作として位置づけられている。

 

ファルスタッフは単なる道化役ではなく、哀愁と温情、若き日の追憶、老いによる孤独と挫折を併せ持つ複雑な人物である。エルガーはその内面を、明確な筋書きよりも“心象の連続”として音楽化しており、作品全体がひとつの人生劇場として構築されている点が特徴である。

 

主題構成は綿密であり、ファルスタッフ自身の主題、若きハル王子(のちのヘンリー五世)の主題、追憶の主題などが巧みに交錯し、音楽的ドラマを形成する。冒頭から現れるファルスタッフの主題は、豪放さと滑稽味の中に陰影を帯びており、ユーモアと哀感が複雑に入り混じる。対照的に、ハル王子の主題は力強く端正であり、二人の関係の変遷を象徴的に示す。

 

作品中盤の「追憶」部分は、エルガーの抒情性が最も発揮される箇所であり、ファルスタッフの若き日の歓楽や友情が温かく描かれる。しかし、この懐古的美しさは長く続かず、音楽は王子の成長と国家の秩序の回復、そしてファルスタッフの孤独な末路へと向かう。終結部では、ハル王子が王となり、ファルスタッフを遠ざける場面が陰鬱な和声と弱音器を多用した書法で示され、最後には淡い憐憫の情とともにファルスタッフの死が静かに描かれる。

 

《ファルスタッフ》は、“英雄の失墜”ではなく、“一人の人間の真実”を描いた作品である。喜劇性と悲劇性、活力と衰退、友情と孤独が交錯し、その音楽的深度はエルガーの交響曲や《ゲロンティアスの夢》に匹敵する。シェイクスピア解釈と個人の情念を合わせたエルガーの人間洞察の極致として評価されるべき作品である。
それにしても、これほどの重要作品が、まだ日本初演が行われていないという現実。日本のエルガー受容もまだまだ伸びしろがあるというべきなのか・・・・。

 

《ファルスタッフ》が作曲された家ロンドン、ハムステッドの家「セヴァーンハウス」

 

 

 

 

 

《ファルスタッフ》推薦盤

 

 

――作曲者の構想から情念的解釈、そして色彩的アプローチまで――**

 

 

 

 

**① エドワード・エルガー指揮/ロンドン交響楽団(1931)

――作曲者自ら「自信作」と述べた堂々たる自作自演**

 

エルガー自身が本作を「自信作」と語ったことは広く知られているが、その確信はこの自作自演盤によって裏付けられる。テンポの揺らぎは自由でありながら、全体の構造は明晰で、ファルスタッフの人生の諧謔と陰影を知り尽くした者にしか描けない造形がある。とりわけ回想場面の微細なルバートや、終結の諦念に満ちた弱音の処理は、作曲者の意図が直接刻まれた歴史的証言であるといえる。1930年代の電気録音として音質も十分に聴きやすく、作品研究の上でも必携である。

 

 

 

**② ジョン・バルビローリ指揮/ハレ管弦楽団(1964)

――ファルスタッフの“心”に寄り添う、情的・人間的アプローチの極致**

 

バルビローリほどエルガーの人間的側面を情感豊かに描き得た指揮者は稀である。この盤の《ファルスタッフ》は、まさに“彼自身の物語”を語るかのような温もりと哀愁にあふれている。テンポはやや遅めに設定され、ファルスタッフの優しさ、寂しさ、晩年の影がしっとりと滲み出る。とくに「追憶」から終盤にかけての歌わせ方は比類なく、心を掴んで離さない情的な深みがある。エルガー演奏史における決定的名盤のひとつである。

 

 

 

 

**③ シャルル・デュトワ指揮/モントリオール交響楽団(1991)

――リヒャルト・シュトラウスを思わせる絢爛たる色彩とオーケストラ技巧**

 

デュトワは本作を、エルガー後期の管弦楽法を最大限に開花させた“色彩絵巻”として描き出す。スコアの細部に潜む透明な配合、疾走感のあるリズム処理、硬質でありながら艶やかなトーンは、しばしばリヒャルト・シュトラウスの交響詩を彷彿とさせる。ファルスタッフの人物像よりも、舞台全体のドラマと色彩美を強調する解釈で、作品のオーケストラ的魅力を最も鮮やかに提示した録音といえる。音響もきわめて鮮烈で、現代的な視点から本作を味わうのに最適である。

 

 

 

 

 

三者ともアプローチがまったく異なりながら、いずれも《ファルスタッフ》の多面的な魅力を照らす名盤である。
**作曲者の構想(エルガー)/情念の物語性(バルビローリ)/色彩的オーケストレーション(デュトワ)**という三方向から聴くことで、この作品の奥行きがいっそう立体的に理解できるであろう。

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