遂につかんだ名声

円熟という名の完成――ネヴィル・マリナー、最晩年の《エニグマ変奏曲》

2014年、ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホール。アカデミー室内管弦楽団創設者サー・ネヴィル・マリナーの90歳を祝う演奏会で披露されたエルガー《エニグマ変奏曲》は、まさに完成されたマリナー・エルガーの到達点を示す演奏である。マリナーの没年(2016)を思えば、これは事実上、彼の芸術人生の総決算として聴かれるべき記録であろう。

 

この演奏を一貫して支配しているのは、「静けさ」ではなくむしろ “静寂の確信” である。冒頭、弱音の弦群が鳴り始めた瞬間から、音楽は深い均衡の中に置かれる。テンポは決して極端に遅くはないが、落ち着きと余裕を持った進行である。それは単に速度の問題ではなく、時の流れを受け止める余白を伴う演奏である。音楽は前へ進むのみならず、音と響きの静かな輪郭と沈黙の間隙を同時に描き出す。

 

フィルハーモニア管の弦は非常に均質で、どの楽器もが周囲を聴き合いながら進行する。これは個々の技巧を誇示する類の「美しさ」ではない。むしろ、集団としての呼吸の一致によって静謐が生まれる。旋律は決して浮きすぎず、しかし埋没することもなく、意識的に立ち上がり続ける。これは、音楽が「単なる装飾」ではなく、聴取者の内面と直接対話する演奏であることを示している。

 

マリナーはこの《ニムロド》において、外面的な感傷や過度な叙情性に傾くことを避けている。これは彼の一貫した解釈の姿勢であり、1977 年のコンセルトヘボウ盤に見られた「明晰な構築性」に通じるが、2014 年の演奏にはそれに加えて 円熟による抑制と深み が加味されている。旋律は決して丸くならず、内面に潜む緊張と解放のダイナミクスを、極めて自然な呼吸の形で提示する。この呼吸は、強音やクレッシェンドといった外的表現に頼らず、内的な音楽的確信と均衡によって成立している。

 

終盤に向かうにつれて音楽は次第に高揚するが、その高揚は外形的な頂点へと突き抜ける類のものではない。これは「ありきたりのカタルシス」ではないのである。むしろ、静かに増幅された内的必然性の果てに到達する音響的結果である。それは、エルガーがこの楽章で示したかったであろう「静かながら確信に満ちた赦し」のように感じられ、聴取者の内側に深い余韻を残す。

 

視覚的に映るマリナーの姿勢も、楽団の応答も、音楽の本質を端的に示している。余計な身振りはなく、しかし身体全体が音楽の進行に寄り添っている。これは、指揮者と楽団との信頼関係の結晶であると同時に、エルガー音楽が持つ「内面の確信」の表現として極めて整合的である。

 

この《ニムロド》は、技巧や個性を誇示するタイプの演奏ではない。むしろ、「祈り」としての音楽を成立させる演奏である。旋律が形を変え、響きが時間の奥行きを刻むにつれ、聴く者の内面に静かな重層が積み上がっていく。この演奏は、そのような音楽のあり方、そしてエルガーの精神性の核心に迫る演奏として、数多の録音映像の中でも特筆すべき位置を占める。

 

〈E.D.U.〉は、祝祭的でありながら決して誇張に走らない。冒頭から音楽は明晰に、しかも自然な推進力をもって進む。テンポは堂々としているが、決して重量級ではない。マリナーの特徴である均整の取れた構築性が、ここでも揺るぎなく貫かれている。音楽は力で押し切るのではなく、流れの必然として高揚し、必然として収束する。

 

特筆すべきは、アカデミー室内管弦楽団の反応の鋭さである。これは単に長年共演してきたという関係性にとどまらない。マリナーが半世紀以上にわたり手塩にかけて育て上げたオーケストラが、指揮者の身振り一つ一つを呼吸として共有していることが、映像からもはっきりと伝わってくる。音楽は指揮棒によって統制されているのではなく、あたかも共同体的な合意のもとに生成しているかのようである。

 

1977年のコンセルトヘボウ管との録音と比較しても、基本的なスタイルに変化はない。すなわち、過度なロマン主義的粘着や、自己主張の強い感情表出は避けられ、あくまで音楽の構造と品格が優先されている。しかしこの2014年の演奏には、若き日の理知的明晰さに加えて、時間を生き抜いた者だけが獲得し得る柔らかさと包容力が感じられる。角が取れ、しかし輪郭は曖昧にならない。その絶妙な均衡こそが「円熟」と呼ばれる所以であろう。

 

終盤、勝利的に高揚する音楽においても、マリナーは決して誇示しない。〈E.D.U.〉にしばしば付随する英雄的誇張や自己礼賛的な色彩は、ここでは巧みに抑制されている。その代わりに浮かび上がるのは、人間エルガーの誠実さと、友情への静かな肯定である。これは外向的な祝祭ではなく、内面からにじみ出る肯定であり、その意味でこの演奏はきわめて英国的である。

 

すでに《ニムロド》と〈E.D.U.〉の二曲のみが映像として残されていること自体が幸運と言わねばならない。もし全曲が記録されていたなら、これは間違いなくマリナー晩年の代表的エルガー映像として語り継がれていたであろう。しかし、この終曲だけでも十分に伝わる。ここには、技巧でも個性でもなく、音楽と生涯を重ね合わせた指揮者の最終的な答えがある。

 

《ニムロド》と〈E.D.U.〉は、マリナーがエルガーを「解釈した」演奏ではない。エルガーの音楽を通して、自らの人生を静かに完結させた演奏なのである。
さらにこの演奏は単なる名演ではない。
「音楽が祈りになる瞬間」 の体験である。
そしてそれは、エルガー音楽の本質が何であるかを、聴く者に深く問いかける。

 

円熟という名の完成――ネヴィル・マリナー、最晩年の《エニグマ変奏曲》

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