「ヤマカズのエル2を聴かずしてエルガーを語るなかれ」山田和樹のエルがー2番(2025)
2025年1月17日 (金)
サントリーホール
指揮:山田和樹
ヴァイオリン:周防亮介
エルガー:行進曲《威風堂々》第1番 ニ長調 op.39-1
ヴォーン・ウィリアムズ:揚げひばり
エルガー:交響曲第2番 変ホ長調 op.63
Conductor=Excellent 5
Orchestra=Very nice 4
Audience=Very nice 4
Publicity=Very nice 4
Elgar sympathy=4
Total 21/25
84パーセント
今回から採点方法を少し変更してある。これまではSeat Locationを入れていたが、これを排除し代わりにElgar sympathyを加えることにした。
「エルガーシンパシー」「エルガーへの共感度」というべきか?私的には「エルガー力(えるがーりょく)」という言葉に置き換えてもよいと考えている。
ConductorはExcellentの5点満点で文句あるまい。
日本では、横浜市大、日フィル、バーミンガム市響と3度もエルガーの交響曲第1番を指揮した山田和樹。
それらの素晴らしい出来栄えから考えて第2番に着手したらかなりのモノになるであろうとは想像していたが、予想を上回るものとなったということがいえるだろう。
「ヤマカズのエル2を聴かずしてエルガーを語るなかれ」
これは今後真理となることは間違いない。
あのパッションあふれる幸福感に陶酔するような指揮姿。正にElgar Apostlesだ。
彼の指揮するエルガー1番交響曲は、あの濃厚な緩徐楽章からジェフリー・テイトに似ていると感じていた。
では2番は?
本人の弁によると自分で計測した演奏時間が約65分だったのでジュゼッペ・シノーポリを意識しているとのことだった。
シノーポリをベンチマークにしているということはシノーポリかブライデン・トムソン系の演奏になるのかと予想していた。
確かに遅いテンポ。あの第1番の緩徐楽章でのテイトような感じ。しかし引っ張るところは引っ張るが、緊縮する部分はギュっと引き締めるのでそんな助長な感じはしない。こういう引っ張るスタイルはバルビローリだが、むしろリチャード・ヒコックスが一番近いかなと思った。
第2楽章のカンタービレでの煽りは凄かった。1番を指揮したバーミンガムの時もそうだったが、これでもかと鳴らしているオケに対してさらに煽りをかける。バーミンガムの時は遅いテンポで窒息しそうな管楽器奏者が真っ赤な顔をしているのに、それをさらに煽っていた山田。今回も特にパーカッションを煽りに煽っていた。この煽りはは結構危険で、奏者は放っておいても勝手にエキサイトしてくるので、技術が伴わないと感情のあまり演奏にブレが生じる。指揮者は熱くなってはいけないので、そこでコントロールして整えるものである。しかし、ここまで煽るのはオケを信頼しているからということだろう。実際フォルムは崩れることがなかった。79番のオーボエソロ(見事だった!)が終わり80番で全合奏でffで受け継ぐ部分は少し抑えめだったので、ここはコリン・デイヴィスに似ていた。
第3楽章もスケルツォにしてはややゆったりめ。特に歓びの精霊の姿が全体像を表す部分では、強い印象を残すことに成功している。
第4楽章。エルガーを理解している人は第4楽章に比重を置く。意外にこれを理解していない指揮者もいる。英国の演奏者にさえいるくらい。全体的に派手さでは1楽章2楽章ほどではないので、ここに軸足を置かない指揮者や、4楽章は退屈だとさえ言ってしまうリスナーがいる。はっきり言ってこういう人たちはエルガーの精神から一番遠い所にいる。そこはさすが山田和樹は理解している。こだわりが充分感じられた。エルガーは言っている。「本当の音楽は155番以降から始まる」。これが本質である。
ただ、なぜかマエストロが使っていたスコアがドーバー社の廉価版のように見えた。あの楽譜は一番と二番が一緒になっているので便利なのだが、いかんせん解説が書いていないのである。ぜひノヴェロ社の詳しい解説のあるものが望ましいのであるが。「ここがハンス・リヒターのテーマか」とか「ここはトランペットの伸ばしは一小節だけど慣例で2小節伸ばしてもいいのか」とか「ここはオルガンを入れるのもありなのか」など参考になる情報が山盛りなのである。
オケは、ピアニシモの美しさが格別。特に第2楽章でのディナーミックのメリハリ。
ということは、山田和樹が指揮した交響曲第1番のモットー主題の出だしは指揮者の意図である指示であったということがわかる。あの出だしが不満だった。もう少し音量を絞って出れないものか?と。市大オケの時も日フィルでもバーミンガムでもそうだったので、指揮者のポリシーだということになる。出来ないからああなっていたのではなく、勿論出来るけど指揮者の指示でああいう表現になったということがはっきりわかるわけだ。こういう物語は「点」で見るのではなく「線」で見ないと理解できないことがあるものだ。山田のエルガーを追いかけて続けているからこそ見える世界である。
第3楽章など20数年前のロッホランが指揮した時は崩壊していた部分も今回は問題なく仕上げて見せた日フィル。
本当に昨今のオーケストラの技術レベルの底上げは凄いものだと思う。20年30年前なら少々の演奏の傷は仕方ないものだと思っていたが、今はそんなこと心配する必要がないものになっている。
特に弦楽器セクションの端正な美しさはソフトでメロウ。こんな音が出せるようになっているとは・・・。
オーディエンスもパブリシティもほぼマイナスポイントはなく、このコンサート全体というパッケージをほぼ完全なものと仕上げていたと思う。終わった後の、あの10秒近い静寂。お客さんにも本当に感謝したい。
そしてエルガーシンパシー。エルガーへの共感度。エルガー愛の多さ。これも時を重ねるごとにアップしているように感じる。
指揮者のエルガーへのこだわり、オケの反応力、お客さんの共感度、パブリシティの質。ともに素晴らしいと感じたものである。
日フィルが前回この曲を演奏したのが2002年のジェームズ・ロッホラン以来。実は日フィルはエルガーの交響曲第1番の日本初演のオケなのだ。もちろん指揮はロッホラン。日フィルとエルガーにはそういう縁がある。2002年のロッホランが演奏した時のちょっとした「業」は消えないが、それは今回の指揮者にもオケ団員には関係ないので、あの時の「業」がマイナスに働くことはなかった。
終了とともに天上のエルガーとロッホランにこの演奏を届ける観想を行い手を合わせた。
終演後、マエストロ山田にご挨拶。色々と面白いエピソードがあったが、それはまた機会があったら。
とにかく大切なことなので最後にもう一度言う。
「ヤマカズのエル2を聴かずしてエルガーを語るなかれ」