愛の音楽家エドワード・エルガー

ボールト幻のリリタ盤

エイドリアン・ボールトのエルガー:1968年ロンドン・フィルとの幻の名盤

 

エルガー指揮者として歴代最高の評価を受けるエイドリアン・ボールト。その録音遺産は、交響曲においても群を抜く豊かさを誇り、ライブ録音やスタジオ録音を含めれば第1番・第2番ともに少なくとも5〜6種が存在する。だが、その中でもとりわけ異彩を放つのが、1968年にロンドン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮して録音された、通称「リリタ盤」である。

 

長らくLPでしか流通しておらず、エルガー愛好家の間では“幻の名盤”として語られてきたこの録音は、ようやく2007年にCD化され、広く聴取可能となった。録音当時はアナログではあったが、1968年の水準としては極めて良質なステレオ録音であり、細部まで見通しの良い音質であることも大きな魅力である。

 

70年代のEMI盤で聴かれる、晩年のボールトによる枯淡の味わいもまた忘れがたいが、このリリタ盤には、それ以上にエルガー音楽の精神と構造を手中に収めた指揮者の解釈の“頂点”が刻印されている。老練の手綱さばきと若々しい緊張感が同居し、旋律の抒情と構築の美学が完璧なバランスで統御されている。

 

ここに記録された演奏は、単なる音楽の再現を超え、英国音楽の伝統と、作曲家エルガーに対する深い敬愛が織りなす崇高なドキュメントである。ボールトのエルガー解釈の到達点を示すこの録音が、現代に再評価されることは、英国音楽史においても大いなる喜びである。

 

 

以下に、1968年録音のエイドリアン・ボールト指揮/ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団によるエルガーの交響曲第1番・第2番(リリタ盤)に対するスコア分析および楽章ごとの解説を加え、作品の構造とボールトの解釈を解説。

 

■交響曲第1番 変イ長調 Op.55(1908)

エルガー自身が「この交響曲は行進曲ではなく、精神的な旅である」と述べたように、構造は明確なソナタ形式ながら、そこに人間の内的ドラマが深く刻み込まれている。

 

第1楽章:Andante. Nobilmente e semplice - Allegro
「気高く、単純に」という冒頭の主題は、まるで理想という旗を高く掲げるかのように提示される。この主題は楽章内だけでなく、交響曲全体を通じて回帰し、まるで人生の“信条”のような役割を果たす。

 

ボールトの指揮はこの主題を静かに、だが決して弱々しくなく提示する。まるで夜明けの光が山の稜線を照らすような、慎ましくも崇高な開始である。中間部では弦と木管の応答が繊細に展開されるが、ボールトはここでも決して音楽を煽らず、内面から燃えるような推進力を与えている。

 

第2楽章:Allegro molto
スケルツォ楽章でありながら、非常に複雑な構成を持つ。リズムの断片化とオーケストレーションの閃きが交錯し、まるで人間の感情の裏側——皮肉、諧謔、不安——が一斉に顔をのぞかせるような楽章。

 

ボールトはここでも精密なバランス感覚を発揮し、複雑なリズムのからくりを過度に誇張することなく、全体の構造を明快に提示する。精密な懐中時計を組み立てるような慎重さと緊張感が、演奏全体に漂う。

 

第3楽章:Adagio
エルガーの中でも最も深く、個人的な音楽の一つ。第2交響曲のアダージョと並ぶ静謐な祈りの音楽。中間部で激しく感情が噴出するが、再び静けさへと戻る構成は、まるで魂が揺れながらも帰る場所を見出すようである。

 

ボールトはここで弦の歌わせ方に細心の注意を払い、音の呼吸を完璧にコントロールする。特にチェロとヴィオラが交錯する場面では、息を呑むような美しさが展開される。

 

第4楽章:Lento - Allegro
再び第1楽章の主題が回帰するが、ここでは一種の「変容」を遂げている。まるで長い旅の末に再び自分の信念に立ち返ったかのような、心の再生が感じられる。

 

ボールトのアプローチは厳格でありながら、暖かさと余裕がある。終結部では木管の繊細なニュアンスを生かし、弦楽が見事にそれを包み込む。帰結は誇張のない確信であり、彼自身の哲学を語るかのようだ。

 

 

■交響曲第2番 変ホ長調 Op.63(1911)

第1番の「信念」に対し、第2番は「憂愁」と「回想」が軸となる。全体的にもっと自由な構造で、感情の機微がより複雑に編み込まれている。

 

第1楽章:Allegro vivace e nobilmente
第1番のような明確な主題提示とは異なり、音楽はまるで雲がたゆたうように現れては変化していく。ロマンティックな豊かさと不安の兆しが交錯する。

 

ボールトの演奏では冒頭のリズムの処理が特に印象的で、音楽が“滑る”ことなく、地に足の着いた響きで推移していく。金管の使い方も極めて精緻で、安易な「派手さ」には一切走らない。

 

第2楽章:Larghetto
この交響曲の核心ともいえる静謐な葬送行進曲。エルガーはこの楽章を「幽霊のようなもの」と呼び、明確な死ではなく“死の予感”として書いた。

 

ボールトはこの“幽霊”を音で描き出す名人芸を見せる。テンポは遅すぎず、深すぎず、まるで時間そのものが止まるような神秘的な空間を創出している。まさに“音による追憶”。

 

第3楽章:Rondo - Presto
前楽章の沈黙を打ち破るような奔流。しかし、どこか焦燥を帯びたこの楽章は、勝利の音楽ではなく、むしろ過剰な活動性が破綻に向かうような危うさを孕んでいる。

 

ボールトの解釈は極めて鋭く、細かなリズムの切れ味が絶妙。ここでの金管の扱い方は特筆に値し、鋭くも粗野にならず、貴族的な品格を保っている。

 

第4楽章:Moderato e maestoso
終楽章はゆるやかなフーガと広がるメロディが交錯しながら、徐々に沈静化していく。終盤で回帰する主題には、諦念とも慰めとも取れる表情がある。

 

ボールトはこの「昇華」のプロセスを情に流されずに描く。過剰な感傷に陥らず、それでいて聴き手の心に静かな余韻を残す。最終和音のフェードアウトは、まるで最後にそっと手を差し伸べるような優しさを湛えている。

 

 

1968年のロンドン・フィルとのエルガー交響曲録音は、まさにボールトという「エルガーの代弁者」が残した金字塔である。そこには雄弁ではないが深く、慎ましいが確固たる意思が貫かれており、交響曲という形式を通してエルガーの精神的宇宙を体現している。

 

エルガーの交響曲を大伽藍に喩えるならば、ボールトの解釈はその建築の構造美を見事に照らし出し、表面の装飾に頼らずとも、内在する美しさと真実を観る者に示してくれる。まさに「真の解釈者」とはこのような存在である。

 

 

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