【エルガーと「希望と栄光の国」】 ― 時系列でたどる栄光と葛藤の軌跡 ―
■ 1901年:《威風堂々》第1番完成と初演の熱狂
エルガーが《威風堂々》作品39の第1番を完成させたのは1901年。中間部に現れる壮麗な旋律は、ロンドン初演の際、聴衆の熱狂的な拍手に応えてアンコールで再演されたほどの人気を博した。
この旋律に対してエルガーは強い自負を持ち、**「あれは一生に一度書けるかどうかの旋律だ(a tune that comes once in a lifetime)」**と語っている。
この段階では、純粋に音楽的な誇りと創作上の喜びに満ちた関係であった。
■ 1902年:「希望と栄光の国」の誕生と戴冠式頌歌
1902年、国王エドワード7世の戴冠式に際し、《威風堂々》第1番の旋律を愛国的合唱曲に転用する構想が持ち上がり、詩人A.C.ベンソンによって詞がつけられた(「希望と栄光の国」)。
戴冠式は延期されたが、《戴冠式頌歌(Coronation Ode)》として発表され、終結部にこの旋律が盛大な愛国賛歌として登場する。
エルガーはこの合唱版の大衆的成功を受けつつも、ベンソンの詞が過剰に愛国的であることに戸惑いを覚えていたとされる。
公式には否定しなかったが、私的な書簡では**「この詞は重たすぎる」**、「わたしの音楽が軍国主義の道具にされるのは望まない」といったニュアンスの言葉が伝えられている。エルガーの書簡には、この旋律に対する複雑な感情が表れている。彼は友人への手紙で、「この旋律が私の代表作として扱われることに、時折困惑を覚える」と述べており、その人気と自身の芸術的志向との間で葛藤していたことが窺える。
■ 1905年:アメリカ・イェール大学での使用と国際的広がり
この年、エルガーはアメリカ・イェール大学から名誉博士号を授与され、式典では「希望と栄光の国」の旋律が演奏された。
これを契機に、アメリカの大学式典(特に卒業式)でこの旋律が演奏される慣例が生まれ、「ポンプ・アンド・サーカムスタンス行進曲」として世界的な拡張を遂げる。
エルガー自身はこの用いられ方について直接的な評価は残していないが、後年には「私の音楽の多くがアメリカで評価された」と語っており、この国際的成功は一定の満足をもって受け止めていたと考えられる。
■ 1914–1918年:第一次世界大戦とナショナリズムへの距離
第一次世界大戦が勃発すると、「希望と栄光の国」は英国の士気高揚の象徴としてますます演奏されるようになる。
しかしエルガーは、このような愛国礼賛の空気に対して批判的な立場を取り、戦時オラトリオ《The Spirit of England》では、戦争の悲哀や死者への哀悼をテーマに据えた。
この時期、エルガーは自身の創作が国家的プロパガンダに回収される危機感を覚えており、「希望と栄光の国」についても距離を置くような態度が目立ち始める。
彼にとってこの旋律は音楽的誇りであると同時に、利用されることへの諦念と屈託の対象となっていた。
■ 1920年代後半:大衆化と恒例行事化への諦念
1920年代末には、「希望と栄光の国」はBBCプロムスの恒例曲として定着し、英国における国家的儀式の定番曲ともなっていく。
エルガー自身はもはやこれをコントロールできない状況となり、「自分の手を離れてしまった音楽」として、この旋律を語るようになる。
また、この時期には創作意欲の減退と孤独感も加わり、愛国歌としての地位と作曲家本人の思いは大きく乖離していた。
■ 1924年:英国帝国博覧会と「象徴としての自作」への違和感
1924年、ロンドン郊外のウェンブリーで開催された英国帝国博覧会(British Empire Exhibition)の開幕式において、エルガーは「希望と栄光の国」を指揮するよう半ば強要された。
この出来事について、エルガーは友人への書簡などで不満を滲ませており、**「この曲はもはや私の手を離れてしまった」**という心境が読み取れる。
国家行事の定番曲として固定化されていくことへの嫌悪感や倦怠が、ここではっきりと顕在化した。
■ 結語:旋律の栄光と作曲家の沈黙
「希望と栄光の国」は、作曲家の誇りと、社会によって形作られた“象徴”のあいだで引き裂かれた旋律であった。
エルガー自身にとっては、「一生に一度の旋律」でありながら、時に「望まぬ顔」としての国民的アイコンとなってしまった存在でもある。
死後もこの旋律は彼の代名詞であり続け、彼の音楽の宿命を象徴する存在となっている。