アビーロードスタジオ
1926年、フレッド・ガイスバーグのプロデュースのもと、HMV社による電気録音プロジェクトが本格的に始動する。
エルガーはこの新方式に、老境にありながら異様なほどの関心を示した。
それは単なる技術的好奇心ではない。
**「自分の音楽が、どう残るのか」**という問いに対する、彼なりの最後の回答だった。
1914年以降、アコースティック方式による録音で主要作品はすでに記録されていた。
しかし、ホーンに向かって演奏を押し込める旧方式は、エルガーにとって常に妥協を伴うものだった。
ダイナミクスは歪められ、オーケストレーションの妙は失われる。
何より、「自分が思い描いた時間感覚」がそこには残らない。
電気録音は違った。
マイクロフォンという存在は、演奏を「押し出す」必要を消し、音楽をそのまま捕捉する。
テンポの揺れ、呼吸の間、ためらい――
エルガーの音楽にとって決定的に重要な要素が、初めて記録可能になった。
この録音が行われたスタジオ――
後にビートルズによって世界的聖地となるアビーロード・スタジオ。
だが、この場所で最初に録音を行った「アーティスト」は、他ならぬエルガーその人であった。
この事実は、単なるトリビアではない。
それは、19世紀的作曲家が20世紀メディアの中心に立った瞬間を意味している。
1931年、スタジオのこけら落としとして演奏された《希望と栄光の国》。
エルガー自身の指揮によるこの演奏は、フランスのパテ社によって映像としても記録された。
ここで注目すべきは、選曲である。
《エニグマ》でも、《交響曲》でもなく、《希望と栄光の国》。
すでに国家的象徴となったこの音楽を、自らの手で固定するという行為。
これは栄光の誇示ではない。
むしろ、エルガー自身が自覚していた「役割の変化」の表れだ。
彼はもう、未来の作曲家ではなかった。
創作の炎はほぼ燃え尽き、室内楽とチェロ協奏曲を最後に、沈黙が支配していた。
だが同時に、彼は自分の音楽が他者によって変形されていくことにも、強い警戒心を抱いていた。
録音とは、指揮者の解釈を排除する行為である。
「こう演奏してほしい」という願いではなく、
「これが私の音楽だ」という宣言。
その延長線上に、《ファルスタッフ》の録音セッションがある。
この作品は、エルガー後期の中でも最も複雑で、最も誤解されやすい楽曲だ。
演奏次第で冗漫にもなり、逆に風刺的に矮小化もされる。
だからこそ、エルガーは自ら振った。
ここには、創作の終焉を迎えた作曲家が、解釈の主導権だけは手放さないという、静かな意志がある。
アビーロード・スタジオは、エルガーにとって創作の場ではなかった。
だがそれは、自己像を確定させる場だった。
沈黙に向かう作曲家が、
最後に選んだ仕事は「作ること」ではなく、
「残すこと」だったのである。
エルガーは、未来に向かって語らなかった。
だが、録音という新しい技術を通じて、
自分自身に最終的な署名を与えた。
それは、20世紀が始まったことを告げる、
ひとりの19世紀人の、極めて冷静な別れ方だった。



