遂につかんだ名声

エルガーとスタンフォードの関係性 —— 尊敬と断絶、そして静かな弔い

エドワード・エルガーとチャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード。この二人の関係は、単なる師弟でもなく、単なるライバルでもなく、時に親密でありながら、やがて痛烈な断絶を迎えるという、非常に複雑な軌跡を描いた。

 

エルガーがスタンフォードと初めて親交を結んだのは1895年のことである。当時、エルガーは地方都市ウースターに暮らす自学自習の作曲家としてすでに注目されつつあり、一方スタンフォードは王立音楽大学の中心人物として、すでに英国音楽界の中枢を担っていた。そのスタンフォードにとって、地方出身の“無名の男”エルガーの才能は、意外性とともに強烈な印象を与えたに違いない。

 

実際、エルガーは当初、スタンフォードを含む“英国三巨頭”——すなわちスタンフォード、パリー、サリヴァン——を公の場でも積極的に称賛していた。スタンフォードの作品を絶賛し、自らその紹介にも努めたほどである。その後、《エニグマ変奏曲》(1899年)の成功によってエルガーは一気に国民的作曲家の地位に上り詰めるが、この時点までは、スタンフォードに対してある種の“憧れ”すら感じていた節がある。

 

ところが、関係は突如として暗転する。《ゲロンティアスの夢》(1900年)を巡って、スタンフォードはエルガーに対し極めて辛辣な態度を取る。直接的な原因となったのは、スタンフォードがエルガー宛に送った批判的な書簡である。それは作品の宗教的熱情や表現の過剰さを“カトリック的過激さ”として揶揄するような内容だったとされ、エルガーはこの手紙を読み、「かつてこんなに傷ついたことはない」と語っている。

 

スタンフォードの《ゲロンティアス》評は、その後も二面性を持ち続ける。弟子ハーバート・ハウェルズには「もし私にこのような音楽が書けたら、首を差し出してもよい」とまで語った一方で、別の友人には「この作品からは悪臭がプンプンする」とまでこき下ろした。エルガーにとってこれは、尊敬していた先達からの裏切りと感じられたのだろう。二人の関係はこの時を境に決定的に冷え込み、その後はほとんど交わることがなくなる。

 

だが、それでもどこかに複雑な感情が残っていたことを示すのが、1920年にエルガーの妻アリスが亡くなった時の逸話である。葬儀の日、スタンフォードは人知れずその場に姿を現したという。誰にも見つからないようにひっそりと、声もかけず、墓前にも立たず、ただ遠くから見守るようにしてその場を離れた。

 

なぜ彼はあの場にいたのか。友情への悔恨だったのか、かつての弟分に対する思いの残滓だったのか、あるいは己の老いと死を予感しつつ過去と向き合う沈黙の儀式だったのか。スタンフォードはその心情を語らなかったし、語るべき相手ももはやそこにはいなかった。

 

この静かな再会にも似た別れの風景こそ、二人の関係のすべてを象徴しているのかもしれない。尊敬、嫉妬、傷心、そして赦し——それらが言葉にならぬまま交錯する、イギリス音楽史に残された一つの抒情詩である。
Elgar with fellow composers at Bournemouth, July 1910 festival, to mark centenary of Bournemouth Symphony Orch
1枚の写真に収まるエルガー(左端)とスタンフォード(右端)。1910年ボーンマスフェスティバルにて。両者はお互いに出来る限りの距離を置いているかのようだ。正に二人の仲を象徴している。

 


さらにこの写真ではスタンフォードは”宿敵”であるエルガーを睨みつけているかのようだ。1922年グロースターでのスリークワイアフェスティバルにて

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