遂につかんだ名声

距離を超えて響く“エニグマ”――ガーディナー、コロナ禍における《エニグマ変奏曲》精神的勝利

2021年、コロナ禍という極めて特殊な状況下で行われたサー・ジョン・エリオット・ガーディナー指揮、フィルハーモニア管弦楽団による《エニグマ変奏曲》の演奏映像は、単なる抜粋演奏にとどまらず、21世紀におけるエルガー解釈の一つの到達点を示している。

 

ロイヤル・フェスティバル・ホールの舞台上では、オーケストラの奏者たちが大きく間隔を取り、編成も実質的に縮小されている。視覚的にも音響的にも、本来エルガーが想定した「厚み」や「密度」からは大きく条件が乖離していることは明らかである。通常であれば、エルガーの音楽、とりわけ終曲「E.D.U.」においては致命的とも言える制約であろう。

 

しかし、この演奏が示したのは、「エルガーの本質は物量ではない」という厳然たる事実である。

 

ガーディナーの指揮は、1998年のウィーン・フィルとの録音で聴かれた、流麗で自然体な推進力を基盤としつつも、ここではより一層、構造的で精神性に踏み込んだものとなっている。テンポは決して誇張されず、アゴーギクも節度を保っているが、音楽の進行には一切の停滞がない。間引かれた編成にもかかわらず、音楽は「痩せる」どころか、むしろ輪郭を明確にし、骨格を露わにして進んでいく。
《ニムロド》は映像作品としても一つの独立した音楽劇として成立しており、ガーディナーの解釈はそこに祈りの焦点と静謐な確信の深みを与えている。
冒頭から、弦楽は決して柔らかさだけを追い求めるのではなく、静かな緊張感を伴う音像を構築する。ガーディナーが本楽章の冒頭を捉える際のテンポ選択は、単なる遅めのテンポではない。それは内的な呼吸の余白を作り出すためのテンポであり、聴き手がすでに音楽と身体的な距離を取り、内面に沈潜することを要求するようなアプローチである。
このようなアプローチは、楽譜上の記号だけではなく、楽曲が持つ精神的遠心力への応答として生じているように感じられる。すなわち、音楽の中心が外側の壮麗さではなく、「内側の問いかけ」という地点に設定されている。
《ニムロド》は本来的にエルガーの自我と友情の深さを象徴する変奏である。ガーディナーはこの象徴性を、外面的なドラマや効果音的な動的増幅に頼ることなく、響きの質と時間の流れを通じて描き出している。
フィルハーモニア管弦楽団の弦楽セクションは、弓の使い方において極めて慎重である。ヴィブラートの強弱、音の立ち上がりと消え入りのバランスが、まるで古楽演奏における「均衡感覚」を思い起こさせるような丁寧さで統御される。ここにおいて、ガーディナーは単に「美しい音」を求めるのではなく、音と沈黙の関係性そのものを音楽として聴取者に呈示するという意志を貫いている。
この演奏では管楽器の語りも、決してデコレーション的な装飾に留まらない。各声部が互いに寄り添いながら、全体としての祈りのラインを描いていく様は、まさに典礼音楽のような連続性と応答性を持っている。
ガーディナーの《ニムロド》が特筆すべきは、祈りそのものを看取するような解釈の軸である。多くの演奏がこの変奏を「慈愛」や「叙情」として聴かせるのに対し、ガーディナーはそれを「沈黙の持続」として扱う。音楽が進むごとに、聴き手に要求される心理的距離はわずかに深まり、やがて音と沈黙の交錯が祈りとしての連続性を生む。
この点は、先に取り上げた1998年のウィーンフィル盤とも連続しているが、フィルハーモニア管との演奏は、特に**「静けさの克服」**に重きが置かれている。外面的な盛り上がりは稀薄であるが、内的な充満は濃厚である。これはエルガー自身がしばしば抱えた二律背反――華やかさと沈潜、栄光と孤独――を、演奏そのものの質として具体化したものと評価できる。
この映像は、必ずしも通常のオーケストラ映像のような豊かな視覚情報を伴っていない。しかし、この制約が逆に効果を生じている。視覚的な情報が抑制され、聴覚的関心がすべて「音そのもの」へと向かう結果、ガーディナーの音楽の持つ時間の密度と精神の厚みが濃厚に立ち上がる。
画面に映る奏者の間隔や姿勢、ホールの残響は、コロナ禍という状況を想起させるが、それは決して演奏効果の付加物ではなく、この演奏が「現実の条件を引き受けた音楽的生成」であることを示している。制約と音楽的純度との相互作用は、この《ニムロド》を単なる名曲の演奏としてではなく、現代の精神状況への応答としての演奏へと押し上げている。
ガーディナー/フィルハーモニア管弦楽団による《ニムロド》は、外面的な華やかさや感情的なドラマを優先しない、精神的奥行きと時間の構築を軸にした演奏である。音響的制約と環境的制約をも音楽の一部として取り込みつつ、作品の内的構造を克明に提示するこのアプローチは、エルガーの音楽が持つ祈りの深度をあらためて浮かび上がらせる。

 

この演奏は、単なる名演の一断面ではなく、エルガーの《エニグマ変奏曲》という巨大な音楽構造の一部を、「内的持続の現象」として体験させる試みである。個々の聴取者がそれぞれの静寂と対話する場として、今日的な意味を持つ演奏といえるだろう。
特筆すべきは、クライマックスに向かう過程における統制力である。通常のフル編成であれば、自然発生的に盛り上がる箇所においても、ここでは一音一音が意志をもって積み重ねられている。これは、オーケストラが互いの音を聴き取りにくいという物理的制約があるからこそ、指揮者の示す方向性が絶対的な拠り所となっている証左である。

 

この演奏における「E.D.U.」は、英雄的勝利を誇示する音楽ではない。むしろ、試練を耐え抜いた末の静かな確信、あるいは内面的な凱歌とでも呼ぶべき性格を帯びている。それは、華麗さや壮麗さを前面に押し出す従来の解釈とは一線を画し、エルガー自身が抱えていた内的葛藤――社会的成功と個人的孤独、栄光と自己懐疑――を強く想起させる。

 

1998年のウィーン・フィル盤が、ウィーンの音色とガーディナーの自然な流動性によって「美の極致」を示した演奏であったとすれば、この2021年のフィルハーモニア演奏は、条件の不利を逆手に取り、「エルガーの精神」を剥き出しにした演奏であると言える。音響的制約が、結果として装飾を削ぎ落とし、作品の核心を浮かび上がらせたのである。

 

終結部においても、決して大仰な達成感は演出されない。しかし、その代わりに残るのは、強い意志と揺るぎない構築感である。これは、ガーディナーという指揮者が、もはやスタイルや流派を超え、作品の本質そのものと直接対話している段階に到達していることを示している。

 

全曲演奏ではないことが惜しまれてならないが、「ニムロド」と「E.D.U.」の二曲だけでも、ガーディナーのエルガー解釈が20年を経て深化し、むしろ研ぎ澄まされていることは疑いようがない。
制約の時代において、これほどまでに堂々と、そして説得力をもって鳴り響いたエルガーは稀である。

 

この演奏は、コロナ禍という歴史的状況を超えて、今後も語り継がれるべき《エニグマ変奏曲》の一断面である。

 

 

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