愛の音楽家エドワード・エルガー

時間そのものを彫刻する ―― ボールトとヘンデル、限界点としてのエルガー

エルガーのヴァイオリン協奏曲について語られる際、しばしば「50分超えの大曲」という表現が無批判に用いられる。しかし、この定型句は厳密には事実ではない。実際の演奏史を俯瞰すれば、50分を明確に超える例は少数派であり、平均演奏時間はむしろ48分前後に落ち着く。この作品を「長大さ」で語ること自体が、ある種の思考停止であると言ってよい。

 

その意味で、**ボールト指揮、イダ・ヘンデル独奏によるこの演奏(約55分)**は、単なる「長い演奏」ではない。
これは、エルガーの芸術性をキープしたまま、この協奏曲がどこまで時間を引き延ばし得るかという、極限実験の記録である。

 

第1楽章 ―― 音楽が前進を拒否する瞬間

 

第1楽章アレグロ冒頭から、ボールトの姿勢は明確である。
ここには「推進力」という概念が存在しない。音楽は前へ進もうとするたびに、必ず立ち止まり、振り返り、呼吸をやり直す。

 

ヘンデルのヴァイオリンは、技巧を誇示するどころか、音と音の**重みと間(ま)**を徹底的に測り続ける。フレーズは歌われるというよりも、「刻まれる」。しかもそれは感傷的な彫刻ではない。冷ややかで、硬質で、まるで石造のような音楽である。

 

ここで特筆すべきは、テンポが遅いにもかかわらず、音楽が弛緩しない点である。
これはボールトが、拍ではなく構造そのものを指揮しているからである。楽章全体は巨大なアーチとして把握され、細部はその重力から決して逸脱しない。

 

第2楽章 ―― 静止した祈り

 

アンダンテ楽章において、この演奏は異様な境地に達する。
通常この楽章は、甘美さや内省性が強調されがちだが、ここでは一切の「甘さ」が排除されている。

 

ヘンデルの音色は美しい。しかしそれは慰めの美ではない。
むしろ、感情を表に出すことを拒否した末に滲み出る美である。

 

ボールトのテンポ設定は、時間の流れをほぼ停止させる寸前まで引き延ばされている。だが、それによって現れるのは陶酔ではなく、緊張で満たされた沈黙である。
この楽章は、祈りであると同時に、祈りが叶わないことを知った後の音楽でもある。

 

第3楽章 ―― 崩れない要塞

 

終楽章アレグロ・モルトは、本来、解放感や躍動を伴うべき楽章である。だがこの演奏では、その期待は完全に裏切られる。

 

音楽は決して奔流にならない。
それどころか、巨大な石壁が少しずつ移動していくような感触すらある。

 

この終楽章において、ボールトとヘンデルは「終わらせること」を急がない。コーダに至るまで、あらゆる素材が等価に扱われ、主題も装飾も区別されない。
その結果、聴き手は次第に、時間感覚そのものを失っていく。

 

最後に訪れるのは勝利でも高揚でもない。
それは、巨大な音楽的構築物を、最後まで崩さずに立たせきったという事実だけである。

 

この演奏の位置づけ ―― 一期一会としての極限

 

重要なのは、ボールトもヘンデルも、この協奏曲を他にも録音しているという点である。しかし、それらはいずれもここまで遅くはない。
つまり、この演奏は「彼らの標準解釈」ではない。

 

これは、

 

 特定の時代

 

 特定の精神状態

 

 特定の音楽観

 

が偶然にも一致したことで生まれた、再現不能な瞬間である。

 

ここまで引き延ばされたエルガーのヴァイオリン協奏曲は、もはや「協奏曲」というジャンルを逸脱している。
それは交響曲でもなく、室内楽でもなく、ましてやヴィルトゥオーゾ作品でもない。

 

時間そのものを素材とした音楽的建築物――それが、この演奏の本質である。

 

「50分超えの大曲」という表現が安易であることを、この演奏ほど雄弁に示す例はない。
なぜなら、ここで問題なのは分数ではなく、時間の密度と耐久性だからである。

 

この演奏は遅い。確かに遅い。
しかしそれは怠惰でも誇張でもない。
これは、エルガーという作曲家の音楽が耐えうる最大限の重力を測定した、記念碑的ドキュメントなのである。

 

そして、その極限は、おそらく二度と更新されることはない。
まさに一期一会。
エルガー演奏史の中でも、異様なまでに孤立し、しかし確実に屹立する要塞である。

 

 

最速演奏サージェント/ハイフェッツ盤VS最遅ボールト/ヘンデル盤

―― 疲労と沈潜、威圧と黙想**

 

1. 同じ曲を聴いて、なぜこれほど違うのか

 

エルガー《ヴァイオリン協奏曲》における
サージェント/ハイフェッツと
ボールト/ヘンデル
この二つの録音は、単なる解釈差やテンポ差を超え、聴取体験そのものの質が根本的に異なる。

 

両者を続けて聴いたとき、多くの聴き手が感じるのは、
ハイフェッツ盤では「疲労」、
ボールト盤では「沈潜(内向)」
という、まったく異なる心理的反応である。

 

この差異は、演奏の巧拙や完成度の問題ではない。
それは、音楽が聴き手に対してどのような姿勢を取っているかの違いに由来する。

 

2. ハイフェッツ盤――能動的に“圧倒される”体験

 

ハイフェッツの演奏は、最初から最後まで聴き手を支配する。

 

音は鋭く、集中力は途切れず、テンポは前進をやめない。
聴き手は、音楽の流れに身を委ねることを許されず、常に「捕まえられる」側に置かれる。

 

心理的には、以下の状態が連続する。

 

緊張を強いられる

 

次の音を予測させられる

 

音楽の主導権を奪われる

 

これは、強烈な体験である。
だが同時に、聴き手は休むことができない。

 

第2楽章においてすら、心は解放されない。
旋律は歌われるが、そこに「弱さ」や「ためらい」はなく、常に完璧で、常に主張的である。

 

結果として、聴取体験はこうなる。

 

 感嘆する

 

 驚嘆する

 

 しかし、消耗する

 

音楽が終わったとき、達成感はあるが、余韻は残らない。
心に沈殿するのはエルガーの思想ではなく、ハイフェッツの圧倒的存在感である。

 

これは、聴き手が観客席からステージを仰ぎ見る体験である。

 

3. ボールト/ヘンデル盤――受動的に“沈んでいく”体験

 

一方、ボールト/ヘンデルの演奏は、聴き手に何も強要しない。

 

テンポは極端に遅く、音楽は前進を拒み、フレーズは宙に留まる。
ここで聴き手は、音楽に「ついていく」必要がない。

 

心理的には、次のような変化が起こる。

 

 時間感覚が曖昧になる

 

 注意が外側から内側へ向かう

 

 音楽を“追う”のをやめる

 

この演奏では、聴き手は音楽の外に置かれない。
むしろ、音楽の内部に沈み込んでいく。

 

ヘンデルの音は、決して美しくないわけではない。
しかしそれは誇示される美ではなく、耐えられた美である。

 

第2楽章では、感情は語られず、ただ存在する。
聴き手は涙を誘われることもなく、感動を要求されることもない。
その代わり、自分自身の感情が静かに浮かび上がってくる。

 

音楽が終わったとき、疲労はない。
あるのは、重さと静けさ、そして言語化できない余韻である。

 

これは、音楽と同じ空間に佇む体験である。

 

4. 威圧と黙想――心理的重心の違い

 

この二つの演奏の差を一言で言えば、

 

 ハイフェッツ盤:威圧

 

 ボールト盤:黙想

 

である。

 

ハイフェッツは、聴き手に「感じさせる」。
ボールトは、聴き手に「考えさせる」ことすらしない。
ただ、考える余地を与える。

 

前者では、音楽は出来事であり、後者では、音楽は状態である。

 

5. エルガー受容における心理的分岐点

 

この心理的差異は、そのままエルガー受容の分岐点でもある。

 

ハイフェッツ盤を通じてエルガーに触れた聴き手は、
「これは凄い協奏曲だ」と思う

 

ボールト盤を通じて触れた聴き手は、
「これは簡単に語れない音楽だ」と感じる

 

前者は外向きであり、後者は内向きである。

 

そして、エルガーという作曲家は、本質的に内向的な精神の持ち主であった。

 

6. なぜエルガー愛好者はボールトに引き寄せられるのか

 

エルガーを深く愛する者が、最終的にボールト/ヘンデルへ回帰する理由は明白である。

 

そこでは、

 

 作曲家が前に出ない

 

 演奏家が主張しない

 

 音楽だけが残る

 

ハイフェッツ盤は、強烈な一回性の体験である。
ボールト盤は、何度も戻ってこられる場所である。

 

 

 

ハイフェッツの演奏は、聴き手を征服する。
ボールトの演奏は、聴き手を放置する。

 

そして、エルガーの音楽が本当に必要としているのは、
放置されることによって立ち上がる沈黙である。

 

だからこそ、
疲れ切った夜に聴きたくなるのはボールトであり、
覚悟を決めたときに聴くのがハイフェッツなのである。

 

この心理的差異を理解したとき、
両者はもはや優劣ではなく、役割の違いとして見えてくる。

 

そしてその役割分担こそが、
エルガーという作曲家を多層的に生かし続けている理由なのである。

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