ワルター・ゲールのエニグマ
🎻 ワルター・ゲール指揮《エニグマ変奏曲》
(録音:1950年代・Concert Hall Symphony Orchestra)
ワルター・ゲールの名を知っている人は、相当なマニアといえるだろう。さらに彼とエルガーを繋ぐ細い糸が存在していることも。よくこんな録音が残っていたものである。これがなかなか味わい深く捨てたものではないのである。
【演奏全体の印象】
ワルター・ゲールのこの録音は、20世紀中葉の英国外におけるエルガー演奏としては極めてユニークで、ドイツ表現主義の香りを宿しながら、エルガーの中期作品に込められた内面的エネルギーを深く描き出している。ゲールがユダヤ系であり、ナチスを逃れて英国に亡命したという経歴をふまえると、この録音には単なる音楽的再現を超えた「居場所を求める精神」が映り込んでいるように感じられる。
【録音とオーケストラ】
オーケストラは「Concert Hall Symphony Orchestra」名義だが、実際にはスイスのヴィンタートゥール交響楽団とされており、明確にイギリス的な音色を持つわけではない。弦楽の響きは柔らかく、木管には素朴さがあり、録音当時のヨーロッパ地方オケに共通する、やや渋めのテクスチャが魅力。録音は1950年代らしいモノラルだが、音像は意外と明晰で、細部まで十分に把握可能である。
【各変奏の特徴とゲールのアプローチ】
主題(Andante)
テンポはやや遅めで、瞑想的かつ重々しい。弦楽器の音にあまり艶はないが、彫りの深いフレージングが印象的で、エルガーの精神性を“掘り下げる”ような趣。落ち着いたテンポ、重厚で明晰的。各フレーズを丁寧に彫琢し、やや重めに構築。提示部としての威厳を保つ。
変奏I(C.A.E.)
愛妻アリスへの変奏。ロマンティックだが、感傷に流れず、落ち着いた節度ある語り口。中庸のテンポで、じんわりと感情が広がる。やや呼吸を感じる表現。滑らかな弦の歌に寄り添う抑制された呼吸。内面的な抒情が強調される。
変奏II (H.D.S.-P.)
活発で跳ねるような推進。各モチーフのアタックがくっきりとし、エネルギーを前面に出す。ユーモラスというより、明快さが前景化。
変奏III (R.B.T.)
気品ある舞踏風。レガートとスタッカートのコントラストが鋭く、乾いたユーモアを感じさせる。
変奏IV(W.M.B.)
この変奏でゲールの特質がより顕著に現れる。ややリズムが不安定な箇所もあるが、音の配置に「重量感」があり、各楽器のアーティキュレーションが意外なまでに明快。非常に力強く急峻。管楽器のマーチ的キャラクターを重厚に描出。構造感が強調される。
変奏V (R.P.A.)
控えめなカンタービレ風。主旋律の柔らかな波動が、甘美な懐古を思わせる。内面性のある叙述。
変奏VI (Ysobel)
優雅で中庸。ヴィオラの動機を滑らかに浮かび上がらせる。クラシカルな端整さ。
変奏VII (Troyte)
非常に激しいスケルツォ風。撃的なアクセントが極めて明確。構造の整合よりも音の性格優先。
変奏VIII (W.N.)
やや弾力ある表現。管楽の息遣いが浮かび上がる。明るく、朗らかな雰囲気。
変奏IX(Nimrod)
極めて遅く、荘厳なテンポ。ビートの揺れが一切なく、構築感を保ったまま静謐な頂点へと向かう。エルガーの精神的遺産を讃えるような、純粋な音の黙想がある。非常に厳粛。フレーズの伸びが大きく、息の長い弦のうねりに呼応する。重厚で高貴。
変奏X (Dorabella)
軽やかで少し浮遊感。弦と木管の細やかな会話が心地よく、陰影のあるロマンティシズムがある。
変奏XI (G.R.S.)
エネルギッシュな行進風。音価の明瞭な統御。構築的で、オーケストラのブロック感が際立つ。
変奏XII (B.G.N.)
やや緩やか、瞑想的。低弦の広がりが響く中、しっとりとした抒情が形成される。
変奏XIII (***)
中庸なテンポの中に夢幻性。アルプホルン風の管楽器(クラリネット・ファゴット)やハープの伴奏が幻想を醸し出す。
変奏XIV(Finale "E.D.U.")
全体としては比較的遅いテンポながら、各パートがしっかりと鳴り、ゲールの統制力が感じられる終曲。エルガーの自画像としての威厳が、華美さよりも「構造」として描かれている。快活な終結、堂々たる再現。序奏の主題が力強く戻り、終結に向けての推進力を強調。統一感と昂揚感を兼備。
【演奏スタイルの特徴】
当時の指揮者としては異例とも言える、どっしりとした「構築型」の演奏。ノーブルな英国的様式というより、ドイツ・ロマン派の重厚さが反映されている。それはある意味で、マーラーと同世代に学んだゲールだからこそできた「もうひとつのエルガー像」と言える。
このスタイルは、バルビローリのような“泣きの表現”とは対極にあり、むしろベームやフルトヴェングラーの手によるエルガーを想像させる。
【歴史的文脈と価値】
ワルター・ゲールはエルガー作品との直接的な接点こそ限られているものの、1957年には未完のピアノ協奏曲緩徐楽章(パーシー・ヤング復元)をハリエット・コーエンと共に演奏した記録がある。その精神的接近は決して軽視できず、エルガーが生涯描き続けた「憧憬と記憶の音楽」に対して、ゲールは見事に独自のフィルターを通して応答している。
この《エニグマ変奏曲》の録音は、エルガー演奏史の主流からは外れた存在である。しかし、だからこそ価値がある。モノラル時代の録音ながら、真摯で構造的、情緒に溺れない「精神の重奏」として、時代を越えて語り継ぐに足る解釈である。
ゲールの《エニグマ》は、1950年代という時代の録音ながら、驚くほど構築的で、特にテンポとフレージングの厳密な対照が各変奏ごとに明確。ノスタルジックな緩楽章においても甘さに流れず、速い楽章では明晰で硬質な打撃感が際立っている。ドイツ流の構成美とイギリス音楽特有の情緒を独自に融合させた、重厚なスタイルの貴重な記録であろう。