ウッド・マジック・・・最大の悲しみ

ナイチンゲールのべアトリス・ハリソン

 

ナイチンゲールのべアトリス・ハリソン

 

 

 

エルガーは1919年にチェロ協奏曲を作曲出版すると早速、同曲の録音セッションが行われた。

 

エルガーはこの曲を1920年と1928年の2度録音を行っているのであるが、その2回ともにソリストとしてベアトリス・ハリソンを指名している。
「私がこの曲を指揮をする場合はソリストは常に彼女でなければならない」とまで主張するほどベアトリスを買っていた。
1920年のアコースティック録音はラッパ吹き込みのか細い音である上に、収録時間の関係から短縮版でのものであった。
しかし、この心もとない音質の向こうから、なんと幽玄で温かい響きが聴こえてくるのだろうか。

 

1928年に行われた2度目の電気録音は短縮なしの全曲版で演奏された。こちらは一度目の録音をさらに拡充させた表現に圧倒されるのだ。
デュ・プレが出現する前の決定版であることは間違いない。

 

1920年最晩年のアリス・エルガーはベアトリスの演奏を聴いて、ベアトリスの母親に向かってこう言ったという。
「あなたのお嬢さんが、きっとこの曲の素晴らしさを広めてくれるでしょう」
この言葉は現実のものとなった。

 

 

ベアトリスが没したのは1965年。ジャクリーヌ・デュ・プレがエルガーのチェロ協奏曲を弾いてセンセーションを巻き起こしたのが1961年。
つまり、ベアトリスはジャッキーの演奏を耳にした可能性が極めて高い。
ジャッキーの演奏を聴いたベアトリスがどう感じてどうコメントを残したのかが知りたかった・・・・・・。
逆にジャッキーもベアトリスの演奏を聴いて大いに影響を受けたことは想像に難くない。
ハリソンがデュ・プレの演奏を聴いたと仮定するならば、彼女はその情熱的で新鮮な解釈に感銘を受けた可能性が高い。デュ・プレの演奏は、エルガーの作品に新たな命を吹き込んだと評価されており、ハリソンもまた、そのような才能を称賛したであろう。しかし、これらはあくまで推測の域を出ない。現時点では、ハリソンがデュ・プレの演奏を聴いたかどうか、またその感想についての具体的な記録は見つかっていない。

 

さて、ベアトリスというと、もう一つの伝説を持っている。
それは彼女が自宅の庭に腰かけてチェロを演奏すると、集まったナイチンゲールが彼女の演奏と同時に歌うという。
その模様はライブ録音として存在している。
やらせという噂もあるが、それでもそういうファンタジーが生まれるほど素晴らしい演奏なのであるから、それならそれでもいいと思う。

 

 

 

1920年最初のチェロ協奏曲アコースティック録音

 

 

1928年のチェロ協奏曲2度目の録音

エルガー《チェロ協奏曲》解釈史

――自作自演からデュ・プレ以後への断絶と変質**

 

1. 問題設定 ―― なぜデュ・プレ以前と以後で世界が分断されるのか

 

エルガー《チェロ協奏曲》ほど、一人の演奏家によって解釈史が決定的に書き換えられた作品は稀である。1919年初演から1965年、ジャクリーヌ・デュ・プレによる伝説的録音(指揮:バルビローリ、ロンドン交響楽団)に至るまで、この作品は比較的抑制された、内省的で渋い作品として理解されてきた。

 

しかし、デュ・プレの登場によって、この協奏曲は**「魂の絶叫」「青春の悲劇」「燃え尽きる情念」**といった極度にロマン主義化された意味付けを与えられ、以後の演奏解釈は、ほぼ例外なくこの巨大な影の下で形成されていくことになる。

 

エルガー自身による自作自演と、デュ・プレ以後の解釈史を対比しながら、この断絶が何を生み、何を失わせたのかを検証する。

 

2. エルガーの自作自演 ―― 禁欲的構築と諦念の音楽

 

エルガー自身が指揮し、ビアトリス・ハリソンを独奏に迎えた1920年前後の2つの録音は、後世の耳からすれば驚くほど淡々として、節度に満ち、情念の誇張を拒絶した演奏である。

 

(1)テンポと推進力

 

テンポは全体に速めで、特に第1楽章冒頭のレチタティーヴォ的主題は、後世の演奏に比べ、はるかに即物的である。そこには、嘆きの沈潜や感情の逡巡を長く引き伸ばす姿勢は存在しない。

 

これは単なる録音技術上の制約ではなく、エルガー自身の音楽観――すなわち感傷を過度に引き延ばすことへの本能的拒否を反映している。

 

(2)感情表出の抑制

 

自作自演における最大の特徴は、情念の抑制である。この協奏曲はしばしば「戦争による絶望の音楽」「失意と悲嘆の告白」と解釈されるが、エルガー自身の演奏から聴こえてくるのは、激情よりも諦念、悲嘆よりも沈黙である。

 

それは、泣き叫ぶ悲劇ではなく、すでに涙を失った者の静かな虚無に近い。

 

3. デュ・プレの革命 ―― 情念の爆発とロマン化

 

1965年、ジャクリーヌ・デュ・プレは、この作品を20世紀後半最大級の感情表現の器へと変貌させた。

 

彼女の演奏において、この協奏曲は、もはや内向的な諦念の音楽ではなく、若き魂の燃焼、運命への抵抗、存在の叫びとして再定義される。

 

(1)テンポの拡張と時間の引き延ばし

 

デュ・プレの演奏における最大の特徴は、徹底したテンポの引き延ばしである。特に第1楽章と第3楽章において、フレーズは執拗なまでに拡大され、音楽は苦悶と官能の間で引き裂かれる。

 

この時間感覚は、エルガー自身の即物的で推進的なテンポ設計とは、ほぼ正反対である。

 

(2)音色と身体性

 

デュ・プレのチェロは、太く、熱く、濃密である。その音色は、楽器というよりも、人間の肉体そのものが発声しているかのような生々しさを帯びる。

 

結果として、この協奏曲は、精神的内省の音楽から、肉体的情念の音楽へと変質した。

 

4. デュ・プレ以後 ―― 解釈の単線化と多様性の喪失

 

デュ・プレの成功は圧倒的であったが、それは同時に、解釈の単線化を招いた。

 

以後、ヨーヨー・マなど、デュ・プレ以降世代の多くの奏者は、多かれ少なかれ**「デュ・プレ的情念」**を基準として、この作品に接近していく。

 

その結果、以下のような傾向が定着する。

 

 極端に遅いテンポ

 

 濃厚なヴィブラート

 

 過剰なルバート

 

 クライマックスの肥大化

 

これらは確かに劇的効果を高めるが、同時に、作品本来の構築性、簡潔性、沈黙の意味を侵食していく。

 

すなわち、エルガーの《チェロ協奏曲》は、「深い静けさの音楽」から「激しい感情の音楽」へと強制的に変換されたのである。

 

5. 歴史的再評価 ―― 何が失われたのか

 

エルガーの自作自演とデュ・プレ以後の演奏を比較したとき、最も大きく失われたのは、諦念と沈黙の深さである。

 

エルガー晩年の精神世界は、英雄的悲劇でも、ロマン的絶望でもない。それは、文明の崩壊、理想の瓦解、信仰の動揺を経た後の、冷え切った静寂である。

 

この協奏曲は、叫ばれるための音楽ではない。
それは、**語る言葉を失った者が、それでもなお音として発せざるを得なかった「最後の告白」**なのである。

 

デュ・プレ以後の演奏史は、この沈黙を、激情という色彩で塗りつぶした。

 

それは決して誤りではない。だが、そこにあるのは、エルガーの魂だけではなく、20世紀後半のロマン主義幻想である。

 

6. 結論 ―― 二つの《チェロ協奏曲》

 

今日我々が聴いている《チェロ協奏曲》は、実質的に二つ存在する。

 

 エルガー自身による、禁欲と沈黙の協奏曲

 

 デュ・プレ以後に成立した、情念と絶叫の協奏曲

 

両者は、もはや同一作品とは言い難いほど、美学的次元が異なる。

 

真にこの作品を理解するためには、デュ・プレの伝説的名演を神話化するだけでなく、その神話の背後に沈められた、作曲者自身の声に耳を澄ませる必要がある。

 

そこに現れるのは、英雄でも悲劇のヒロインでもない。
時代に裏切られ、理想を失い、それでもなお沈黙しきれなかった一人の老作曲家の、静かな独白なのである。

 

7. レパートリー化の功罪 ―― 義務演奏が生む「無機質なエルガー」

 

同時に、現代においてこの《チェロ協奏曲》が置かれている状況には、もう一つ看過できない問題が存在する。それは、本作が**「必須レパートリー」として制度化されてしまったこと**による、演奏の空洞化である。

 

現在、多くのチェリストにとってこの作品は、ドヴォルザーク、シューマン、ショスタコーヴィチと並ぶ標準協奏曲の一角を占めており、音楽大学の試験、コンクール、オーディション、プロ・デビューのプログラムなどにおいて、半ば義務的に取り上げられる作品となっている。

 

その結果、「この曲を弾ける」という事実それ自体が目的化し、なぜこの作品を弾くのか、何を語るべきなのかという根源的問いが忘却されがちになっている。

 

このような演奏においては、エルガーの精神性も、第一次世界大戦後の虚無も、さらにはデュ・プレ以降に形成された解釈史の重層性も、ほとんど意識されない。そこにあるのは、**正確な音程、均整の取れたフレージング、破綻のない構成――すなわち「よく訓練された無機質な音楽」**である。

 

結果として、この協奏曲は、深い精神的告白の音楽から、単なる技巧披露と表現力テストのための教材へと変質する危険に晒されている。

 

この現象は、皮肉にも、本作があまりに有名になりすぎたことの宿命でもある。すなわち、名曲であるがゆえに消費され、消費されるがゆえに空洞化するという、クラシック音楽史に繰り返されてきた構図が、ここでも露呈している。

 

この点において、《愛の挨拶》と《チェロ協奏曲》は、エルガー作品の中で特異な位置を占める。前者は「甘美な小品」として、後者は「深遠な名作」として、それぞれ膨大な数の凡庸な演奏を量産する運命を背負わされてしまった。

 

言い換えれば、この二曲は、名声の代償として、駄演の山が築かれることを免れ得ない作品なのである。昨今、妙にそんな駄演を耳にする機会が増えてきたのはそういう事情である。

 

そこに現れるのは、感動でも、精神性でも、解釈でもない。ただ「弾けるから弾く」という、音楽から最も遠い動機のみである。これはもはや、演奏ではなく作業であり、表現ではなく消費である。

ナイチンゲールのべアトリス・ハリソン

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