幻のピアノ協奏曲への窓 ― ファリントン版《コンサート・アレグロ》の説得力
エルガーが20世紀初頭に構想していたとされる《ピアノ協奏曲》の幻影を、最も自然な形で現代に提示しているのが、このイアン・ファリントン編曲による《コンサート・アレグロOp.46》である。本録音は、編曲者自身がピアノ独奏を務め、ジョージ・ヴァス指揮ボーンマス交響楽団が伴奏を担うという、作品の性格を理解し尽くした理想的布陣によって実現している。
1. 作品の位置づけと編曲の意義
1901年に作曲された《コンサート・アレグロ》は、ファニー・デイヴィスのために書かれた約10分のピアノ独奏曲であり、エルガー自身が「協奏的性格」を明確に意識していた作品である。独奏ピアノ版であっても、その和声の進行、モチーフの扱い、クライマックスの構築法には、明らかにオーケストラ的発想が内在している。
ファリントンの編曲は、単なる後世的な「管弦楽化」ではなく、エルガー自身が想定していたであろう響きの拡張を、極めて慎重かつ抑制的に実現している点に最大の価値がある。管弦楽は決してピアノを覆い尽くすことなく、あくまで色彩と推進力を補完する役割に徹しており、そこには《ヴァイオリン協奏曲》や《交響曲第1番》に通じるエルガー的均衡感覚が感じ取れる。
2. ピアノ独奏 ― 作曲家の内面に寄り添う語り
ピアノを担当するイアン・ファリントンの演奏は、華美なヴィルトゥオジティを前面に押し出すものではなく、構造を明晰に提示する知的なアプローチである。打鍵は明確でありながらも硬質に傾かず、旋律線は常に歌心を失わない。特に中低音域の扱いには、エルガー特有の「重心の低い抒情性」が的確に表現されている。
この演奏においてピアノは、英雄的独奏楽器というよりも、オーケストラの一部として語る主体であり、その姿勢はエルガーが協奏曲形式に対して抱いていた慎重さ、あるいは躊躇とも呼ぶべき感覚と深く共鳴しているように思われる。
3. 管弦楽と指揮 ― 控えめながらも的確な支援
ジョージ・ヴァス指揮によるボーンマス交響楽団は、全体として非常に節度の高い演奏を展開している。弦は柔らかく、木管は色彩を添え、金管は必要最小限に抑制されている。この慎み深さが、結果としてピアノの語りを際立たせ、作品全体に一種の「未完性の美」を与えている。
特に注目すべきは、オーケストラが決してこの作品を「後補の協奏曲」として誇張しない点である。むしろ、これはあくまでエルガーの内面に留まった構想の一断面であるという理解が、演奏全体を貫いている。
4. ロバート・ウォーカー補完版との本質的差異
後年、ロバート・ウォーカーによって補完された「ピアノ協奏曲」は、異なる素材を用いた別作品であり、構想規模も語法も大きく異なる。それに対して、このファリントン版《コンサート・アレグロ》は、エルガー自身の確実な手による素材のみを拡張した作品であり、その分、作曲家の思考の輪郭が極めて鮮明である。
言い換えれば、本作は「完成された協奏曲」ではなく、完成される直前のエルガーの思考を聴く音楽なのである。その点において、ウォーカー版とは比較ではなく、役割そのものが異なると理解すべきであろう。
5. 最もエルガー的な「もしも」
このファリントン編曲版《コンサート・アレグロ》は、「エルガーがもしピアノ協奏曲を書いていたら」という仮定に対する、最も説得力のある音楽的回答である。過度な想像力や後世的補筆に依存せず、エルガー自身の音楽語法の延長線上で成立している点に、本作の価値がある。
本録音は、エルガー作品の周縁を探る資料に留まらず、彼の創作精神の核心に迫る一篇の重要作として評価されるべきである。協奏曲というジャンルに対するエルガーの距離感、慎重さ、そして潜在的可能性を、これほど雄弁に物語る音楽は他にない。


