愛の音楽家エドワード・エルガー

エルガー指揮者

英国におけるエルガー指揮者の系譜とその遺産

エドワード・エルガーの音楽は、英国の指揮者たちの熱意と継承によって、今日までその精神と気品を保ち続けてきた。ここでは、エルガーと直接関わった者から現代のエルガー解釈の担い手まで、その系譜を俯瞰しながら評価する。

 

 

■ 初期の継承者たち —— エルガーの同時代・後継世代

 

* エドワード・エルガー

 指揮者として自作を数多く録音に残し、彼自身の音楽観を最も明確に伝えてくれる存在。1920年代のアコースティック録音からは、驚くほど流動的かつ劇的なテンポ操作が聴かれ、彼の音楽が決して「重厚一辺倒」ではなかったことを示している。

 

* ランドン・ロナルド

 エルガーと親交が深く、協奏作品の名伴奏者でもあった。ロマン派的抒情と自然なフレージングに優れ、当時の英国音楽界で欠かせぬ存在だった。

 

* ハミルトン・ハーティ/ヘンリー・ウッド

 エルガーと同時代の気鋭指揮者たち。特にヘンリー・ウッドはプロムスを通じてエルガーの普及に貢献。ハーティは指揮だけでなく編曲(ヘンデルなど)でも知られる才人で、エルガーにも独自の共感を見せていた。

 

■ 黄金時代の継承者 —— 戦間期から20世紀後半へ

 

* エイドリアン・ボールト

 言わずと知れた「エルガー演奏の金字塔」。気品と精神性を湛えた演奏は、作品の奥にある英国的叙情と道徳的深みを見事に引き出した。録音・演奏機会ともに圧倒的で、全交響曲・大規模声楽作品も含め、後世への決定版を残した。

 

* ジョン・バルビローリ

 ボールトと並ぶもう一つの頂点。情熱的で内面から滲み出るような歌心にあふれた演奏は、エルガーのロマン性を最大限に引き出す。特に《交響曲第1番》《ゲロンティアスの夢》などでの名演は歴史的。

 

* マルコム・サージェント

 大衆的な魅力とダイナミズムを併せ持つエルガー演奏。時に過剰と評されるほどの華やかさがあるが、それはまたサージェントらしさでもある。声楽作品でも独特のカリスマ性を発揮。

 

* ノーマン・デル・マー/ジョン・プリッチャード/ネヴィル・マリナー

 1950〜70年代に英国音楽の“復権”を支えた中堅たち。プリッチャードは交響曲第一番などの名演で知られ、デル・マーは学究肌のアプローチで構造美を重視。マリナーはモダンなサウンドでエルガーを明晰に描いた。

 

 

■ 現代におけるエルガー演奏の担い手たち
* バーノン・ハンドリー

 “エルガー第3の男”とも言うべき存在。生涯を英国音楽に捧げた指揮者であり、ボールトの後継とされる。エルガーの交響曲全集は作品の真価を冷静に照らし出す名盤。

 

* ブライデン・トムソン/リチャード・ヒコックス

 英国音楽全体を志向した指揮者たち。ヒコックスはBBCナショナル・オーケストラ・オブ・ウェールズとの録音でエルガー宗教作品の普及に貢献。丁寧かつ実直な造型が持ち味。2人とも急逝が惜しまれる。

 

*ジェームズ・ロッホラン

 実に味のある芸風を持つ指揮者。「いぶし銀」という言葉はロッホランのためにあるのではいかと思いたくなる。派手さはないが、誠実で温かく真摯に作品に取り組むスタイルが、エルガーという作曲家のパーソナリティに重なる。特に日フィルを指揮して交響曲第1番の日本初演を行うなど日本との結びつきもあり、彼のおかげで良質な英国音楽の紹介が行われたのである。

 

 *アレキサンダー・ギブソン

スコットランドの音楽文化を牽引した名指揮者。
エルガー作品にも誠実に取り組み、特にスコティッシュ・ナショナル管弦楽団(現:RSNO)との録音は、堅実で品格のあるアプローチが特徴で、決して誇張せず、しかし音楽の内奥を丁寧に掘り下げる姿勢が印象的。
《エニグマ変奏曲》をはじめ、《戴冠式頌歌》などの名演を残しており、誠実さと滋味深い解釈において、英国のエルガー演奏史に確かな足跡を刻んでいる。
とりわけ、地元スコットランドの聴衆に向けて英国音楽を根付かせた功績は大きく、ローカルから英国音楽全体への波及効果をもたらした立役者といってよい。

 

* アンドリュー・デイヴィス/マーク・エルダー/コリン・デイヴィス

 現代におけるエルガー演奏の代表格。アンドリュー・デイヴィスは大規模作品への精通が深く、プロムス等での《ゲロンティアス》は圧巻。マーク・エルダーも構成力と劇性に優れ、特にハレ管弦楽団との演奏は近年高く評価されている。コリン・デイヴィスはロンドン響との来日でも正にラスボス感あふれる演奏を誇示して見せた。

 

* ジェフリー・テイト

 生前は主にドイツ・オーストリア音楽に強い印象を残した指揮者だが、エルガーに対しても深い共感を持ち合わせた数少ない英国人指揮者のひとり。
 特に交響曲第1番や《エニグマ変奏曲》の演奏は、構築性と叙情性のバランスに優れ、知的かつ内面的な深さを兼ね備えていた。派手さよりも精神性に重きを置いた解釈は、晩年に向けてますます円熟味を帯び、エルガーを「過去の作曲家」ではなく、現代に響く精神的な作曲家として再発見する可能性を秘めていた。交響曲第1番の緩徐楽章のテンポはどの演奏よりも遅い。それでいて決して助長になることのない緊張感をも保つ。この世のものとは思えない美しさである。彼の録音でもそれを聴くことができるし、読響での来日公演でも同様だった。

 

* エドワード・ガードナー

 比較的若い世代で、今後のエルガー解釈を担う注目株。クリーンな音響の中に、英国音楽の新時代的な表現を見出している。ロンドン・フィルとの協働において今後の進展が期待される。

 

* マーティン・ブラッビンズ

 長年にわたりBBCスコティッシュ響、ENGLISH NATIONAL OPERAなどで着実なエルガー演奏を積み上げてきた。彼のエルガー解釈は現代的視点をもった名演とされ、今後ますます評価されるべき存在。

 

* ジュリアン・ロイド・ウェーバー

 指揮者としての活動は限られるが、チェリストとしてエルガーの《チェロ協奏曲》における真摯な演奏が記憶に残る。エルガーの情感を身体全体で語り得る存在だった。

 

*ジョン・エリオット・ガーディナー

ガーディナーと言えば、一般的にはバッハやヘンデル、モンテヴェルディといったバロック音楽における古楽解釈の第一人者として知られている。したがって、エルガーという後期ロマン派のシンフォニストをガーディナーが手がけると聞けば、意外に思う者も少なくないであろう。しかし、実のところ彼は決してエルガーに疎いわけではない。むしろ、長年にわたり「ここぞ」という場面でエルガー作品を選び、要所要所でその理解と愛情をにじませてきた指揮者である。英国人としての血脈、そして音楽的良心が、エルガーへの深い共感として現れているのは明らかである。
過去にウィーン・フィルを指揮して録音された《エニグマ変奏曲》でも、そのエルガー解釈の的確さと情熱は如実に現れていたし、コンセルトヘボウでの第2交響曲での、その想いは一層確かなものとなる。

 

*ロジャー・ノリントン

ノリントンもガーディナー同様バロック時代、古典派時代の作曲家を得意にしているが、その実、エルガー作品にも相当力を注いでいる。何と言ってもベルリンフィルで交響曲第1番を指揮しているという実績は特筆に値する。さらにシュトゥットガルト放送響にピリオド奏法を叩きこみ、その上で新しいエルガー解釈を世界に紹介した実績は大きい。

 

*サイモン・ラトル

エルガー解釈の現代的旗手である指揮者。
交響曲第1番・第2番:バーミンガム市交響楽団時代の録音では繊細かつ緻密な構築力で新たな世代の解釈を示した。エニグマ変奏曲ではベルリン・フィルとの映像付き演奏や録音でも話題に。ラトルならではの色彩感とバランス感覚が光る名演であった。宗教作品(特に『ゲロンティアスの夢』)はレパートリーとしての敬意は継続されており今後の新展開も期待できるだろう。
解釈の特長はロマン派の重厚さと20世紀的分析性の融合である。ラトルは感情に流されることなく、エルガーの音楽構造やテクスチャーを明晰に描出するスタイル。また過度なノスタルジアを排し、作品そのものの力を信じるアプローチを展開する。とくに第2交響曲ではその傾向が顕著で、バルビローリやボールトのような「エルガーの香り」とは異なる、知的なエルガー像を打ち出した。
オーケストラの音色作りの名人といえる。どの楽団を指揮しても、英国的なブラスの厚みや弦の潤いを引き出す手腕は見事。
ラトルは「伝統的英国エルガー解釈」の継承者というより、ポスト・ブリテン世代以降の国際派エルガー解釈者と位置づけられるだろう。海外(特にベルリン)でエルガーを紹介する際の最適なナビゲーターでもあり、国際的な普及にも貢献。その演奏は「知性」「構築美」「音響設計」の三点で特に高く評価され、現代的エルガー解釈の基準点とも言える。

 

*ダニエル・ハーディング

英国出身ではあるが今後は海外での活躍が増えそうなハーディングだが、エルガーの演奏でも目覚ましい成果を上げている。
ロンドン交響楽団との共演で、交響曲第2番を中心に鮮烈な演奏を展開。
感情過多にならず、知的で構造的なアプローチを採用していた。
特に2013年のプロムスでの演奏は、若き世代による新しいエルガー像の提案として高く評価されている。
ボールトやバルビローリに代表される伝統的英国様式とは異なり、モダンな感性で作品を再構築。

 

*アンドルー・マンゼ

NDRラジオ・フィルの音楽監督として、エルガーの交響曲第1番・第2番をはじめとした主要作品をドイツの聴衆に紹介。構築的で内省的なアプローチが特徴で、エルガーの音楽を“英国限定”の殻から脱却させ、ヨーロッパ音楽の文脈に再提示する試みは現代的で意義深い。濃厚な情感よりも、精神性と透明な響きを重視する演奏スタイルで、新たな時代のエルガー像を提示している。交響曲の名演奏は今後も記憶されるべき成果である。

 

 

その他の重要な記録的存在

頻度や知名度は主流から一歩退くが、記録として意義深い活動を行ってきた指揮者たち:

 

* トーマス・ビーチャム

 エルガーとは距離のあった存在だが、英国音楽の振興という観点では避けて通れない存在。エルガーとは一時不仲になるも和解し、《エニグマ》の録音というエルガーとの男の約束を果たした漢気は語り継がれる。

 

* ベンジャミン・ブリテン

 自作主義の立場を取りながらも、時にエルガーを強く意識した言動も見られ、《ゲロンティアス》の名演は英国的抒情などにその影響が感じられる。

 

* バリー・コレット/ドナルド・ハント/クリストファー・ロビンソン

 地方オーケストラや教会音楽の分野で地道にエルガーを取り上げ続けた人々。商業録音には乏しいが、地元文化としてエルガーを根付かせた功績は計り知れない。筆者にとってはエルガー協会の仲間といった感じである。

 

*チャールズ・マッケラス

オーストラリア生まれだが、キャリアの多くを英国で築き、英国音楽界に多大な貢献を果たした名指揮者のひとり。
エルガーに関しても確かな造詣を持ち、《エニグマ変奏曲》や交響曲第1番の知的で整然とした解釈はとくに高く評価されている。
HIP(歴史的演奏)にも通じる彼らしい厳格さと構造感の中に、英国音楽への強い共感と品格ある叙情性を感じさせる。
バーミンガム市交響楽団、フィルハーモニア管とのエルガー演奏など、録音も数点にわたって残されており、鋭さと透明さを併せ持った演奏が印象的。

 

 

 

英国におけるエルガー演奏の伝統は、エルガー本人の生前から脈々と受け継がれてきた。ボールトとバルビローリによる「双峰」以降、その魂は幾人もの名匠たちによって守られ、深化され、今なお新しい解釈を生み出し続けている。まさに“生きている伝統”であり、これからの指揮者たちにもまた、エルガーという作曲家の奥深さにどう応えるかが問われている。

■ 英語圏以外でエルガーを輝かせた“異邦の共感者たち”

1. ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー

ロシアが生んだ異端の巨匠。エルガーの音楽を母国ロシアのオーケストラとともにまるでチャイコフスキーのような濃密なロマンとして再構築した。《エニグマ変奏曲》や《ヴァイオリン協奏曲》においても、彼ならではの彫りの深い構築性、変幻自在のテンポ設定、そして細部への魔術的な注意が聴きどころ。決して「英国らしさ」には寄り添わない、しかし異なるアングルからその精神性を正面から掴みにいく姿勢には、むしろ真のリスペクトを感じさせる。

 

2. ワシリー・ペトレンコ

ロシア出身ながら、長年リヴァプール響を率いて英国音楽と深い関係を築いた“現代の文化的越境者”。エルガーの交響曲全集の録音は、21世紀のスタンダードのひとつに数えられる完成度であり、構成感の明晰さ、現代的なドライヴ感、そして音響の透明性において特筆すべきものがある。《2番》ではバルビローリ的叙情よりも、ボールト的構造主義を現代的にアップデートしたような見事なバランス感覚を示している。

 

3. エフゲニー・スヴェトラーノフ

その生涯を通じてロシア音楽に献身した“ロシアの魂”が、なぜエルガーを?と不思議に思う向きもあろうが、彼の《ゲロンティアスの夢》は正に烈火のごとし。彼はこの傑作を彼の生まれ故郷であるロシアへと持ち帰るべくモスクワでの伝説的演奏を成し遂げている。合唱指揮者として帯同したリチャード・ヒコックスも多大な影響を受けたと語っていたほど。ロシア的重厚美学のなかにエルガーのドラマティックな側面を強調し、重層的なサウンドと圧倒的なエネルギーで作品を異なる光の中に浮かび上がらせる。英国のノビリティというより、むしろカオスと魂の叫びが強調された、唯一無二のエルガー像。

 

4. オイゲン・ヨッフム

ドイツのカトリック的精神性を湛えた、あのヨッフムがエルガー?と耳を疑いたくなるが、実際に彼の手による《エニグマ変奏曲》が存在する。テンポ設計はやや重め、重心も深く、時折マーラー的な神秘性が顔を出す。英国の“ノビリティ”とはやや異なるベクトル——ドイツ・ロマン派の視座からみた「構築された情緒」としてのエルガー。とりわけ“Nimrod”においては、敬虔な祈りのような解釈が印象的。エルガーを精神的重奏として聴かせる、ある種の「宗教音楽」として昇華させた一例といえる。

 

5.シャルル・デュトワ

NHK交響楽団とのライヴで指揮した《エニグマ変奏曲》は、まさに色彩の魔術師ならではの絢爛たる名演。
特に「ニムロド」では過度に感傷に流れることなく、深い静謐と尊厳を湛えた表現が光り、
終曲「E.D.U.」に至るクライマックスでは、オーケストラを完全に掌握した圧巻のコントロールを披露。
英国外でこれほど精緻で表現的豊かなエルガーを描ける指揮者はきわめて稀であり、
デュトワの音楽性の高さが如実に発揮された瞬間であった。

 

6.ジュゼッペ・シノーポリ

シノーポリは交響曲1番、2番、チェロ協奏曲などの録音がよく知られている。特に2番や序曲「南国にて」では、ワーグナー的オーケストレーションの解釈の延長線上で、これでもかと拡大してみせる。2番など、まるでクナッパーツブッシュの振るワーグナーのような世界観を形成している。この2曲はある程度成功している例であるが、逆に1番は硬く閉じこもる演奏でサッパリ面白みがない。方向性がよくわからないまま終わってしまった感がある。

 

 

 

◾️視座の多様性こそがエルガーの普遍性

本来、英国的な階層文化や詩情の中に息づいているエルガーの音楽が、これほどまでに「英語圏以外」の指揮者によって異なる文脈から掘り起こされているのは驚くべきことであり、また大いに意義のあることでもある。�ロジェストヴェンスキーの知的探求、ペトレンコの現代的清新、スヴェトラーノフの魂の炸裂——いずれもエルガーを“英国から解放”することで、むしろその普遍性と音楽的核心が浮かび上がるという逆説を教えてくれる。エルガーという作曲家を語る際、つい“英国的”というキーワードに偏りがちである。しかしヨッフムのように、その作品をまったく異なる文化・宗教・音楽言語で再解釈した例は、むしろ作曲家の持つ普遍性の裏付けとも言える。�ヨッフムの内省、エルガーの「本質」を異なる鏡に映し出す試みとして、歴史的価値がある。

エルガーに関わってほしくない指揮者

◆ ウラディーミル・アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy)

本来ならば“国際的巨匠”という称号をもって迎えられるべき人物であるはずが、エルガーに関しては、その関与がまるで空虚な儀礼のように映る——そのように感じたリスナーはいると思う。

 

■ サウンドと解釈
アシュケナージのエルガーには、濃密な抒情、威厳、内面的緊張感といった要素がほとんど見られず、音響は総じて平板、時に軽薄とすら評される。「義務的な演奏」に聞こえるのは、演奏の端々から作曲家に対する内的共感の欠如が感じられるからでもある。N響と組んだ演奏のなんと皮相な表現。聴き通すのが本当に苦痛であった。

 

■ 過去の発言と姿勢の一貫性
ピアニスト時代、「ブルックナーの良さがわからない」と語ったとされる彼が、指揮者転向後にブルックナーをレパートリーに加えた事実。これは音楽的誠実さの観点からは、“ポジショントーク”の危うさである。
実際の演奏も、あの深遠なブルックナーらしい響きには程遠く、楽譜上の音の消化にとどまった表層的でなんとも軽やかな印象が拭えない。作曲家に,リスペクトを持っていない人間の演奏など信用できようか?不用意な発言で、彼は世界中のブルックナーファンを敵に回してしまった「残念な人」になってしまったわけである。
エルガーにおいてもまったく同様で、例えば交響曲第1番などの演奏を聴いても、**“Nobilmente”をどのように解釈し、内面化しているのか”**が感じられず、ただ構造をなぞっているだけに聞こえてしまう。エルガーに対してもブルックナーに対する同じ態度で臨んでいるのではないかと、色眼鏡で見るなという方がムリである。

 

■ エルガーメダルの授与について
名誉あるElgar Medalの受章者であることに疑問を呈したい。
「エルガーを世界に紹介してくれた」という表面的な功績以上に、**“精神的シンパシーを持ち得たか”**という観点で見たとき、その器にふさわしかったか?
という根源的な問いが残る。返上した方がよろしいのでは?

 

■ エルガーを演奏する「資質」とは?
演奏者にとって重要なのは、単なる技術的解釈だけではなく、作曲家の精神的世界とどれだけ深く対話できるかということ。
それがなければ、どれだけ名声があっても、演奏はただの「作業」に堕してしまう。
アシュケナージのように、多くのジャンルで活動する中で“義理的に”英国音楽を取り上げたような場合、そこに宿るものは薄く、むしろ**“やらない”方が作曲家のため**になるケースすらある。
エルガーの音楽には、気まぐれや義務感で近づくべきではない。

アメリカにおけるエルガー演奏

1905年のエルガーの初渡米の際、彼の作品は熱狂的に迎えられ、祖国英国についで愛奏され続けられたとされるアメリカにおけるエルガー演奏史を概観するにあたって、重要な手がかりとなるのが、指揮者たちがこの英国作曲家にどのように向き合ってきたかという視点である。以下では、アメリカ各地の主要オーケストラと関わった指揮者たちのエルガー解釈とその立ち位置を中心に考察する。

 

■ 1. アルトゥーロ・トスカニーニ(ニューヨーク・フィル、NBC交響楽団)

トスカニーニは、イタリア出身でありながら、エルガーに対して明確な敬意を抱いていた数少ない非英語圏の巨匠のひとりである。**《エニグマ変奏曲》や《序奏とアレグロ》**の演奏では、鋼のように引き締まったアンサンブルと集中力の高い表現が際立っており、ロマン派的情緒に溺れることなく、むしろエルガーの構築美を強調する解釈を聴かせている。彼のアプローチは、アメリカの聴衆にエルガーを「英国のローカル作曲家」ではなく、ヨーロッパ的普遍性を持つ作曲家として印象づけた意義がある。

 

■ 2. ピエール・モントゥー(サンフランシスコ交響楽団)

フランスのエスプリを湛えたモントゥーもまた、エルガーに対して一定の親近感を持っていた指揮者である。彼の**《エニグマ変奏曲》**は、透明なテクスチャとしなやかなフレージングを特徴とし、英国的重厚さとは異なるアプローチながらも、楽曲への誠実な共感が感じられる。エルガーの“中庸な感傷性”を、決して粘らずに表現した稀有な演奏といえる。

 

■ 3. ブルーノ・ワルター(ニューヨーク・フィル、コロンビア響)

ドイツ・オーストリア系のロマン派解釈を根に持つワルターにとって、エルガーは“親しい他者”として扱われた。録音は存在しないものの**《エニグマ》**を幾度か取り上げたが、そこには慈しみに満ちた音楽作りが貫かれており、特に「ニムロッド」における深いレガートと敬意の込もったテンポ運びは、エルガーの精神性に共鳴するものがあったと伝えられる。

 

 

■ 4. ジョン・バルビローリ(ニューヨーク・フィル)

バルビローリは英国出身であるが、ニューヨークでも重要な活動を行い、エルガー演奏の普及においておそらく最も本質的な貢献を果たした指揮者である。エルガー作品の主なレパートリーを手がけ、その中にはアメリカ初演も含まれる。作品への深い愛情、作品ごとの性格付けの巧みさは、他の追随を許さない。

 

■ 5. ユージン・オーマンディ(フィラデルフィア管弦楽団)

フィラデルフィアの黄金期を築いたオーマンディは、《エニグマ》をはじめ、《威風堂々》など、エルガー録音を多数残した。だが、演奏そのものには一種の「義務感」が漂う。機械的で、温度感に乏しい演奏も多く、エルガーの精神的側面への共鳴の希薄さは否めない。とはいえ、その録音群がアメリカにおけるエルガー定着の足場を築いたのは事実である。

 

■ 6. ゲオルク・ショルティ(シカゴ交響楽団)

ショルティは英国滞在歴も長く、エルガーに対する敬意を明言していた。《エニグマ》《威風堂々》などを取り上げたが、その演奏は力強く、やや硬質。とくにシカゴ響との録音では、緻密な構築と厳格な造形が際立ち、エルガーの「壮麗さ」を正面から取り上げた。ただし、やや精神性に関して「義務感」を感じさせる局面が少なからず垣間見える。自身は英国に帰化しているにも関わらず、その臭いが払拭されることはなかった。

 

■ 7. レナード・バーンスタイン(ニューヨーク・フィル)

バーンスタインはエルガー作品を比較的少なめにしか取り上げていないが、**《コケイン序曲》**の録音などは、その情景描写への鋭敏な感覚が生きており、エルガーの都市性や演劇性に共鳴した例といえる。ただし、エルガーの宗教的・内省的な側面にはあまり関心を示さなかったように思われる。

 

■ 8.レナード・スラットキン

アメリカ生まれながら、アメリカのメジャーオケを振ることはない代わりに英国での活躍が多いだけにエルガーはお手のもの。交響曲や「神の国」といった大作まで出かけるほどの熱の入れよう。
その出来栄えも文句なしのクオリティとなっている。

 

■ 9.ズービン・メータ(サンフランシスコ、ロスアンジェルス)

メータもまた**《エニグマ変奏曲》をレパートリーに含めていた**。その演奏は、オーケストラの音響を活かしたドラマ性と即物的な明晰さが融合し、ある意味でエルガーを“国際化”する方向性に寄与している。ただし内面の掘り下げよりも、音響的ショウピースとしての扱いが目立つ。

 

■ 10.ダニエル・バレンボイム(シカゴ響)

バレンボイムはエルガーに強い関心を示し、《交響曲第1番》《第2番》《チェロ協奏曲》などを演奏・録音した。彼のアプローチはややロマン派的で、ワーグナー的ともいえる構造重視型であり、エルガーの形式感を再評価する上で重要な位置を占める。とくに後期交響曲に対する視点には新鮮さがある。しかし、ものによる出来不出来の差は妙に気になるので評価は容易ではない。

 

■ 11.リッカルド・ムーティ(フィラデルフィア響)

ムーティは**《南国にて》だけを頻繁に取り上げているので、比較的限定的**である。とはいえ、イタリア的なカンタービレと構造感が絶妙に組み合わさっており、エルガーの色彩感を新しい角度から描き出す試みとして注目された。この指揮者からエルガーへのシンパシーを感じ取ることはできないが、この作品における管弦楽的魅力をここまで引き出して見せているのだから、その功績は認められるだろう。

 

■ 12.ジェームズ・レヴァイン(ボストン響など)

いくつかのエルガー作品を取り上げているが、何一つ印象に残るものがない。レヴァインにとってエルガーはOne of themでしかないという淡白感が完全に音として出ている印象が否めない。即物的、無機的という表現が最も適当な表現だろう。

 

■ 13.デヴィッド・ジンマン(ボルチモア)

ジンマンもアメリカにおけるエルガー普及の功労者として認めるべきところではある。ただ、評価できるのは質よりも量というべきで、痛し痒しな存在といえるだろうか。

 

■ 14.アンドレ・プレヴィン(ピッツバーグ、ロスアンジェルス)

プレヴィンもまた積極的にエルガーを紹介する活動には協力的であった。録音もどれも評判は悪くなく全て水準以上をキープしてみせる。ただ、どれもあまりにもスマート過ぎるがゆえに、やもすれば深みに欠けると見られ勝ちでもある。ではあるが、果たした役割は果てしなく大きなものであることは間違いない。

 

◾15.レオポルド・ストコフスキー(フォラデルフィアほか)

言わずと知れたサウンドの錬金術師。彼のエルガーは一種の“幻影”である。演奏スタイルとしては英国の厳格なバランス美とは真逆で、濃厚なレガート、豪奢なダイナミクス、感情の波打ち。とりわけ《エニグマ変奏曲》におけるストコフスキーの編曲/演奏は、エルガーのスコアに手を加え、オルガンのような厚みを管弦楽に持たせ、まるでワーグナーのパルジファル前奏曲のような神秘的空間に変貌させる。ストコフスキーにとってのエルガーは英国紳士ではなく、“大陸的幻想主義者”であったのかもしれない。

 

* 16.ベルナルト・ハイティンク(アメリカ在住・活動歴あり)

 オランダ出身だが、ボストン交響楽団との密接な関係と長期客演歴ゆえ、アメリカにおけるエルガー解釈の質を一段階引き上げた存在と評価できる。
 交響曲第1番、第2番、そして《エニグマ変奏曲》において、オーケストラを最大限に鳴らしながらも一音一音に込められた内的抒情を丁寧に描いた表現が際立つ。エルガーの重厚さを大袈裟にではなく、ヨーロッパ的な均整美と静かな熱量で描いたスタイルというべきか?しかし、その実、彼もまた義務感めいた瞬間が多々見られ、時に芯がブレる傾向がある。
要するにどこに力点を置くかの解釈が伝統的なエルガー演奏者・・例えばバルビローリらとベクトルが違うので拍子抜けさせられるのである。面白いのは、特に日本では、ハイティンクのエルガーは音楽評論家とかライターの受けがなぜか良い。推薦盤に彼らの名を挙げる書き手がやけに多いのだか、何を聞き取っているのか疑問である。

■ 対照的に:距離を置いた指揮者たち

フリッツ・ライナー、ウィレム・メンゲルベルグ、ディミトリ・ミトロプーロス、ジョージ・セル、ロリン・マゼール、クリストフ・フォン・ドホナーニ、小澤征爾、シャルル・ミュンシュ、マイケル・ティルソン・トーマスといった指揮者たちは、ほとんどエルガーに目を向けなかった。セルやマゼールなどは構造主義的な解釈を好んだが、エルガーの“語り”の性格に距離を感じていた可能性がある。ミュンシュや小澤のようにフランス音楽への関心が高い指揮者にとっても、エルガーの情緒的重厚さは必ずしも魅力的には映らなかったのかもしれない。
エルガーを取り上げたアメリカで活躍した指揮者たちの多くは、「共感」よりも「紹介」の立場にいたように思われる。数少ない例外として、バルビローリ、モントゥー、トスカニーニ、スラットキンらが作品と真摯に向き合い、精神的内奥に迫ろうとした姿勢は特筆に値する。逆に、オーマンディやショルティのように「広めたが、愛したとは言い切れない」指揮者もまた、アメリカにおけるエルガー受容史の複雑な側面を物語っている。

日本におけるエルガー指揮者の系譜とその功績

エルガーという作曲家が日本で今日のような存在感を持つに至ったのは、いくつかの優れた指揮者たちの継続的な取り組みによるところが大きい。以下では、エルガー演奏において顕著な業績を残してきた指揮者たちを、その影響力・共感度・演奏の質などを軸に考察する。順番はほぼランキングになっていると考えてもよい。

 

■ 尾高忠明

現代日本におけるエルガー演奏の第一人者。交響曲第1番および第3番の演奏回数は世界最多とも言われるほどで、まさに「尾高=エルガー」と称される存在である。交響曲、管弦楽曲、協奏曲に加え、近年は宗教作品にも積極的に取り組んでおり、そのレパートリーは極めて広範。演奏の質も第一級であり、構築美と抒情、精神性の深さが高次元で融合している。ウェールズ時代の実績もあり、英国本国でもその名は確実に認知されている。日本人唯一のエルガーメダル受賞者である。

 

■ 大友直人

尾高と並ぶ「エルガー普及の二大巨頭」。エルガーの管弦楽曲、宗教作品、さらには声楽付きの大作にまで踏み込み、幅広いレパートリーを誠実に紹介し続けてきた。特に《ゲロンティアスの夢》などの宗教的作品を日本で紹介してきた功績は計り知れない。演奏の精度と解釈の奥行きも非常に高いが、活動の場が主に国内に留まっているのが惜しまれる。世界に向けて紹介されるべき存在である。

 

■ 山田和樹

尾高・大友の後を継ぐ存在として最も有望な指揮者。エルガーの交響曲を中心に、英国音楽への深い共感を示しており、近年では海外オーケストラとの共演も増加。国際的なキャリアの中でエルガーを軸に据え続けることができれば、日本発のエルガー解釈を世界へ伝える担い手となるだろう。

 

■ 山口貴

知名度では他に劣るものの、その歴史的功績は見逃せない存在。昭和期より、まだ日本でほとんど知られていなかったエルガーをはじめとする英国作曲家を積極的に紹介し、日本初演も多数。草創期の英国音楽普及を支えた開拓者であり、今日のエルガー受容の礎を築いた功績は大きい。

 

■ 湯浅卓雄

英国での活動経験も豊富であり、エルガーに対して深い理解と親和性を持つ指揮者。尾高・大友の陰に隠れがちではあるが、演奏は極めて誠実で完成度が高い。交響曲や管弦楽曲を丁寧に取り上げ、日本におけるエルガー受容の「中堅の柱」として存在感を示している。

 

■ 秋山和慶

後年はエルガーをあまり取り上げてはいないが、実は日本におけるエルガー紹介の初期から重要な役割を果たした人物。東京交響楽団とともに培った重厚な響きは、エルガー作品にふさわしい音色であり、長期にわたる蓄積が今に生きている。

 

■ 藤岡幸夫

サー・チャールズ・グローヴスを師に持ち、自身もエルガーに対する共感をしばしば表明しているが、その言動や態度からは一定の違和感が拭えない。「ノビルメンテ」という語への否定的発言(「本当に高貴な人はノビルメンテなんて言葉は使わない」という表現)や、エルガー編曲作品(バッハの幻想曲とフーガのオーケストレーション)を揶揄するような言い回しには、エルガーを愛する者にとっては不快感でしかない。演奏にもその“距離感”が表れてしまっていることもあり、真のリスペクトがどれほどあるのかは疑わしい。ただ、質よりも量(演奏頻度)を勘案して、この人もランクインさせるしかあるまい。

 

 

 

その他の指揮者たち
■ 広上淳一、大野和士、高関健、井上道義

いずれも実力ある指揮者ではあるが、エルガーに対する取り組みは断続的かつ限定的で、強い印象を残す演奏は少ない。中には質的に問題を感じる演奏もあり、特筆すべき貢献は現時点では見当たらない。

 

 

 

 

日本で長く活躍しエルガーの名演を聴かせた外国人指揮者たち

 

■ ジョナサン・ノット

東京交響楽団との《ゲロンティアスの夢》は、日本における同作品の決定的名演のひとつ。作品の神秘性と構築美を見事に両立させ、国際的水準の高さを示した。将来とんでもない巨匠化するのではないかと期待されている指揮者。

 

■ カーチュン・ウォン

神奈川フィルとの《エニグマ変奏曲》で深い精神性と緻密な構成力を披露。近年のエルガー演奏の中でもとりわけ感動的なものとして記憶される。今後は日フィルと共同で素晴らしい演奏が期待できるだろう。

 

■ ダグラス・ボストック

日本での活動歴が長く、エルガーの交響曲第1番などで内面的な抒情と構造感を両立させた名演を披露。その英国的美意識を貫いた演奏は、多くの聴衆の記憶に残る。

 

 

日本におけるエルガー演奏史は、尾高忠明と大友直人という両巨頭の存在を軸に、数人の誠実な継承者たちによって今日まで支えられてきた。今後、山田和樹のような国際的に活躍する新たな世代がこの系譜をどう発展させていくのか、そして外国人指揮者による名演がいかに受容を深化させるかが注目される。
日本でこれだけ深くエルガーが演奏されるようになったこと自体、実は世界的に見ても特異な文化現象である。その背景には、これら指揮者たちの尽力があったことを忘れてはならない。

一曲限定だけで妙に爪痕を残した指揮者

1.エリック・カンゼル

 シンシナティポップスオーケストラという、どちらかというとポップス系の曲をメインとしていたカンゼル。
その中にエルガーの行進曲「威風堂々」第1番がある。これがなかなか、とにかく楽しさ満載の演奏。
行進曲としての実用としては最高の演奏だろう。なぜか忘れらない一曲である。

 

2.カーメン・ドラゴン

 上記のカンゼルと同様キャピトル交響楽団というポップスオケを駆使して、これまた軽やかでリッチなサウンドでの「愛の挨拶」が印象深い。こちらは派手に編曲を施してまるでハリウッド映画の大作のサントラのような仕上がり。この「愛の挨拶」はケン・ラッセルの「エルガー」の中でも使用された。

 

3.ヘルベルト・ケーゲル

 上記二人はアメリカ人でケーゲルはドイツ(東ドイツ)の指揮者。もともとドイツオーストリア系の重厚なスタイルの指揮者であるが、何を思ったか行進曲「威風堂々」第1番の録音がある。これがまた凄い!というか、爆演系、怪演といってよいレベル。
途中でテンポが極端に変わるわ、編曲も自在に取り入れる。カンゼルの演奏が実際の行進に向いているとしたら、ケーゲルは実用の行進に絶対向かないテンポの収縮。これはこれで歴史に残る演奏である。

 

4.朝比奈隆

 「え?朝比奈のエルガー?一体どんなん?」そう正にその興味だけでディスクを購入してしまった。
さぞや、重厚なブルックナーみたいなエルガー・・・を想像したものの意外にアッサリとしていた。オーケストラではなく吹奏楽での演奏だったというのも理由としてあるのだろうが。

今後ぜひエルガーをレパートリーにして欲しい指揮者としてのドゥダメル

グスターボ・ドゥダメルは、現在もっとも国際的な人気と影響力を持つ指揮者の一人であるが、意外にもエルガー作品を取り上げる機会は限られている。にもかかわらず、彼の「ニムロド」(エニグマ変奏曲第9変奏)の演奏には、将来的にエルガーを主要レパートリーの一つとして深めていく可能性を強く感じさせるものがある。

 

■ドゥダメルによる「ニムロド」演奏の特徴

ドゥダメルは、シモン・ボリバル交響楽団を指揮し、この最も内省的かつ精神的な楽章に極めて真摯なアプローチを示した。テンポは遅すぎず、速すぎず、自然な呼吸感を保ちつつ、フレーズの歌い方は豊かで繊細。南米出身の指揮者と若き楽団による演奏とは思えぬほど、英国的な気品と抑制された感情の揺らぎが見事に表現されていた。

 

特に中間部以降のクライマックスの扱いは、ドラマティックに過ぎることなく、静かに心を揺さぶる。エルガー音楽特有の「外に出さない情熱」「内なる高貴さ」への理解と共感が随所に感じられ、単なる音響的効果に頼らない本質的なエルガー解釈が垣間見える。

 

■今後のレパートリーへの期待

ドゥダメルは、マーラー、R・シュトラウス、チャイコフスキー、ショスタコーヴィチなど20世紀の「感情と構築性」が交錯するレパートリーで高い評価を得てきた。その解釈はしばしば情熱的だが、内面性と構築美を両立させる稀有なバランス感覚を持っている。これは、エルガーの交響曲第1番や第2番、《ゲロンティアスの夢》のようなスコアに対して極めて有効な資質である。

 

さらに、ドゥダメルは教育的・社会的プロジェクトを多く手掛けており、エルガーのような「精神の成長と格調を表現する音楽」を若い世代に伝える使命感も持ちうる人物である。英国以外の指揮者がエルガーを積極的に取り上げることで、“国民的作曲家”から“世界の作曲家”への広がりを実現できるという意味でも、ドゥダメルの存在は貴重だ。

 

 

グスターボ・ドゥダメルは、今後ぜひエルガー作品を本格的にレパートリーに加えるべき指揮者である。「ニムロド」で見せた誠実で内面的なアプローチは、その可能性を十分に示しており、将来的には《エニグマ変奏曲》全曲はもちろん、《交響曲第2番》《ゲロンティアスの夢》などの大作での登場が大いに期待される。

 

エルガーの精神性を、南米の情熱と国際的視野で新たに読み直す存在として、ドゥダメルは今後のエルガー演奏史において重要な架け橋となりうるだろう。

 

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