遂につかんだ名声

エニグマ変奏曲第13変奏のHJW

 

エニグマ変奏曲の各変奏で描かれる友人たち、その多くはイニシャルなどからほとんどが解明されている。
しかし、第13番目の変奏曲だけは、今日までいまだに確定されていない。
候補は何人かいて、当初はメアリー・リゴン(ライゴン)女史ではないかという説が有力であったが、今日ではヘレン・ウィーバー説にかたまりつつある。

 

ヘレン・ジェシー・マンロー(旧姓ウィーバー)は、1860年12月27日にイギリスのウースターで生まれた。
エルガーの父親が経営する楽器店がウースターハイストリート10番地で、そこから目と鼻の先84番地がヘレンの家族の経営する靴屋があった。
1878年から1883年にかけて、エルガーは彼女にいくつかの曲を捧げ、1883年の初めから1884年の初めまで婚約していた。
しかし、この婚約は破棄されることになる。エルガーが、英国ではマイノリティな存在であるカトリック教徒であったため宗教上の理由などもあったようだが、実際はヘレン側の家庭の事情が大きかったようだ。
結果的にヘレンはニュージーランドへと移住するにことになり、1885年10月21日、彼女はプリマスからオークランドに向けて出航し、1885年12月10日にオークランドに到着、新しい生活を始めた。
彼女自身はライプチヒに音楽留学をしていただけあって音楽的才能はそれなりにあったようである。実際、当初ニュージーランドで教鞭をとる傍ら、さまざまなコンサート(歌とピアノ演奏)に参加し、生計を立てていた。
その後、1890年にジョン・マンローと結婚し、ケネス(1891年生まれ)とジョイス(1893年生まれ)の2人の子供をもうけたが、その後、1916年に息子が第一次世界大戦で戦死し、5年後の1921年に娘が結核で亡くなり、4年後の1925年に夫が亡くなった。ヘレンは夫より2年余り後、67歳の誕生日を4日後に控えた1927年12月23日、大腸癌のためオークランドの病院で亡くなった。

 

エルガーとヘレンが直接顔を会わせていたのは1878年から1884年の6年ほどの期間であるが、エルガーの人生においてヘレンの存在は所々に影を落とす存在であった。
彼女の息子ケネスは第一次大戦の際、アンザック軍としてフランス戦線へと赴き、当地で負傷を負い、一時ロンドンの病院へと収容される。その後、再びフランス戦線へと投入されそこで戦死を遂げる。
エルガーは、ケネスが負傷兵としてロンドンに滞在していたことと、ケネスが戦死したという事実を周知していた。ケネスの戦死が、あの哀愁に満ちたチェロ協奏曲へと昇華したことも知られている。
では、エルガーはケネスのロンドン滞在と戦死をどのように知りえたのであろうか?
考えられるのはニュージーランドに住んでいたヘレンが知らせたのではないだろうか?
細々と彼らは連絡を取り合っていたのかもしれない。

 

だとしたら、ヘレンはエニグマ変奏曲の第13変奏で描かれているのは自分かもしれないとエルガー本人から知らされていたのではかろうか?あるいは、知らされていたくとも少なくとも世界的な作曲家としての名声を得た、かつての婚約者の出世作であるエニグマ変奏曲は知っていたであろう。彼女はエニグマを聴いてどんな想いだったのだろうか?

 

エニグマ変奏曲第13変奏のHJW

エニグマ変奏曲第13変奏のHJW

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