No one must thinker with it
――エルガー作品は、なぜこれほど「いじくり回されてきた」のか
1. 遺言としての「No one must tinker with it」
1934年、エドワード・エルガーは交響曲第3番を完成させることなく世を去った。
残されたのは、約130ページにも及ぶ詳細なスケッチ群である。
死の直前、エルガーはリードに対し、次のように語ったと伝えられている。
“This is something which I alone understand; no one must tinker with it.”
――これは私以外の誰にも理解できない。
誰も手を触れてはならない。
さらに彼は、スケッチ類をすべて焼却してほしいとまで依頼した。
しかしリードはそれを実行できなかった。
結果としてエルガーの交響曲第3番は、「いじくり回された」末に完成を見た。
アンソニー・ペインによる補完版の存在によって、今日われわれは
《エルガー/ペイン:交響曲第3番》を聴くことができている。
この事実は動かない。
エルガーの遺言は、結果的に無視された。
2. 未完作品補完という「よくある話」を超えて
未完作品の補完自体は、決して珍しい行為ではない。
モーツァルト《レクイエム》
マーラー《交響曲第10番》
など、音楽史には数多くの前例がある。
しかし、エルガーの場合、問題はそこにとどまらない。
3. エルガーの場合――「いじくり回され方」の異常な多様性
エルガーの特異性は、補完が未完作品に限定されない点にある。
① 純粋な未完作品の補完
まず、純粋に未完作品が他者の手により補完されたものとしては
交響曲第3番(アンソニー・ペイン)
ピアノ協奏曲(ロバート・ウォーカー)、
歌劇「スペインの貴婦人」(パーシー・ヤング)、
行進曲「威風堂々」第6番(アンソニー・ペイン)
交響曲第3番第1楽章(ブルース・ターナー)
仮面劇「インドの王冠」(アンソニー・ペイン)
などがある。
その他、2010年にRCMで発見された「最後の審判」の自筆譜からアンソニー・ペインが作品を補完完成させるというプロジェクトも存在したが、それはペインの死去によって実現せずに終わってしまった。
② スケッチ段階の素材を「作品化」する試み
それ以外でスケッチの段階のものを作品として仕上げられた例もある。
3楽章によるピアノトリオ(ポール・エイドリアン・ルーク)
エルガーの主題によるワルツ(クリストファー・ポリーブランク)
エニーナ・ワルツ(デヴィッド・オーエン・ノリス)
スモーキング・カンタータ(デヴィッド・オーエン・ノリス)
ムチのような一撃(クリス・ゴダート)
歌劇「スペインの貴婦人」組曲(パーシー・ヤング)
歌劇「スペインの貴婦人」組曲(マーティン・イエーツ)
「コメディ」序曲(マーティン・イエーツ)
などがある。
③ 完成作品への編曲・改作・転用
それだけでなくエルガーの場合は完成している作品にまで後の補完者の手により「いじくり回される」ケースがある。
セヴァーン組曲→オルガンソナタ第2番(アイヴォー・アトキンス)
オルガンソナタ第1番→管弦楽版=別称交響曲第0番(ユージン・グーセンス)
ピアノ五重奏曲→管弦楽版=別称交響曲第4番(ドナルド・フレイザー)
弦楽四重奏曲→弦楽オーケスラ版(デヴィッド・マシューズ)
交響曲第1番緩徐楽章→弦楽四重奏版(キム・ディーネルト)
ハーモニーミュージック集→シェッド交響曲第1番~第4番(フィリップ・ブロックス)
6つの易しい小品→弦楽合奏のためのエルガーのアンダンテとマーチ(ブライアン・クリンケ)
交響曲第1番ピアノ編曲版(ジークフリード・カルク・エーレルト)
交響曲第1番ピアノ編曲版(イアン・ファリントン)
交響曲第2番ピアノ編曲版(イアン・ファリントン)
チェロ協奏曲→ヴィオラ協奏曲(ライオネル・ターティス)
エニグマ変奏曲から第9変奏ニムロド→ルクスエテルナ(ジョン・キャメロン)
エニグマ変奏曲から第9変奏ニムロド→サンクトゥス(スティーヴン・ベイカー)
エニグマ変奏曲から第9変奏ニムロド→アニュスデイ(デヴィッド・ガーディニュエル)
エニグマ変奏曲から第9変奏ニムロド→ピエイエズ(イアン・ファリントン)
コンサートアレグロ(ピアノ曲→ピアノと管弦楽 イアン・ファリントン)
まだあるかもしれない。思い出したら便宜追加していく。
興味深いのは、エルガー自身もまた、
完成作品を別の形に作り替える可能性を真剣に考えていた点だ。
1919年、チェロ協奏曲出版直前、彼はウィンドフラワーへの手紙でこう書いている。
いっそこの作品をピアノ協奏曲として出してしまおうか――
もし彼が思いとどまらなければ、
現在われわれが「チェロ協奏曲」として崇拝している作品は、
そもそも存在しなかった可能性すらある。
④ さらには別称・番号操作による「再意味化」
で、まだこれだけではないのだ。
完成されている作品で特に補完されているわけではないのに後に別称で「いじくり回される」ケースすらある。
イギリス行進曲=行進曲「威風堂々」第0番
帝国行進曲=行進曲「威風堂々」第7番
ここまで来ると、もはや単なる補完や編曲の範疇を超えている。
エルガーという作曲家そのものが、再編集され続けているのである。
エルガー自身が、作品の同一性に対して意外なほど流動的だったことは、
この一事からも明らかである。
では、エルガーは本当に怒っているのか?
これほどまでに遺言が無視され、
作品が「いじくり回されている」作曲家も珍しい。
だが――
エルガーは果たして、これを憤っているだろうか。
おそらく違う。
彼は天上で、
「しょうがないねえ」
と苦笑しているのではないか。
なぜなら、これほどまでの介入は、
敵意ではなく、愛情によってのみ可能だからである。
エルガーは「触れずにいられない」作曲家である
エルガーの音楽は、完成されていてもなお、
余白がある
沈黙が多い
結論を語らない
そのため後世の人間は、
「続きを書きたくなる」
「別の姿を与えたくなる」。
それは裏切りであると同時に、
最大級の敬意の表明でもある。
エルガーには申し訳ないが、
「いじくり回す」ことに賛成する人間が現れ続ける限り、
彼の音楽は生き延びる。
そして実のところ――
それこそが、エルガーという作曲家の勝利なのではないか。


