1910年のエルガーに何が起こったか?

1910年のエルガーに何が起こったか?

 

エドワード・エルガーの作品には、ある時期を通じて作風というか作品の趣がガラリと変化することに以前から気になっていた。
彼の作品の創作時期を分ける分け方は研究者によっていろいろなやり方がある。
最も一般的として大きく分けると3つに大別することができる。

 

まず、初期として、エルガー最初の作品として位置付けされるユーモレスク・ブロードヒース作曲の1867年から 「カラクタクス」作曲の1898年まで。
そして、エニグマ変奏曲作曲の1899年からチェロ協奏曲作曲の1919年までの中期。
その後のバッハによる幻想曲とフーガの編曲(1922年)から最後の作品ミーナ(1933年) までの晩年記(妻アリスの死後)。

 

 

エルガー創作時期の分け方
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初期(1867~1898)
ユーモレスク・ブロードヒース~カラクタクス
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全盛期(1899~1919)
エニグマ変奏曲~チェロ協奏曲
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晩年期(1922~1933)
バッハの幻想曲とフーガ~ミーナ
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その中期の中でも1910年という年に個人的に以前から注目していた。
彼の作風には1910年のヴァイオリン協奏曲と1911年の第2交響曲の間に不思議な変化が見られる。
前者以前の作風はひたすら明るく、希望を感じさせる曲想(特に終わり方)が多かったのが、
後者を境に未来に対する露骨な不安感や現状に対する否定感、
或いは逃避的傾向のようなものが前面に表れてきているように思う。
1910年という年に彼の中で何らかの心理的変調を強いられるような出来事があったのではないかと想像される。
1910年といえば、彼にとっては作曲家として最も成功していた時代である。
長い間待ち望んでいたはずの地位と名声がやっと手に入ったはずなのに
彼は妻に自殺を仄めかすような話をしている。
実際、彼の作品には不思議な二面性が存在する。
彼の素朴なモチベーションから発して作曲されたものと、
生活と名声のために他力的に作曲されたものとに分かれる。
特にこの頃はこの二つの側面を持つ作品が混在する時期でもあった。
彼はこの葛藤と生涯に渡って格闘し続けている。

 

この1910年という年、いや1910年を前にした数年の間に彼の身に何が起こったのか?

 

一つには彼の宗教観の変化、そしてもうひとつは人間関係の変動ではないかと推測されるのである。
下記の表のとおり、エルガーの作品群の中でもとりわけ宗教性の高い声楽作品が重要なポジションを占めていることは言を持たない。
エルガーがこれらの宗教作品を作曲するバックボーンとなった体験として、 少年時代に聞いたリトルトン・ハウス校の校長フランシス・リーヴの言葉がある。
「キリストに仕えた使徒たちは、特別家柄も良かったわけではなく、高い教育を受けたわけでもなく、
諸君と変わらないごく普通の人たちだった」という話を聞いてから、エルガーはキリストの使徒に関する興味を持ち続けていた。
1900年にバーミンガム音楽祭から作曲の依頼を受けた時、エルガーはこの使徒を題材にした作品を作曲しようと考えた。
実際、時間的余裕がなかったので、この案は諦めざるをえなかったが、もう一つ温め続けていたニューマン枢機卿の「ゲロンティアスの夢」を作曲することした。
その3年後、エルガーは長年の構想を実行に移し始める。
この計画では「使徒たち」「神の国」「最後の審判」という3部作になり、3作とも完成の暁には3日連続での演奏を考えていたようだ。
この辺はエルガーが敬愛していたワーグナーの楽劇の影響が見られる。
また作品中にライトモチーフを多用する手法もワーグナーに倣っている。
しかし、「最後の審判」は結局完成することはなかった。
3部作の最後になるはずであった「最後の審判」がなぜ作曲されないままに終わったのか?
ちょうどこの頃エルガーの作曲家として名声が高まり忙しくなってしまったということもあったが、
彼自身「神の国」で、ある種やるべきことをやり尽くしたというような感を抱いていたようだ。
さらには「標題のない管弦楽作品こそ最上の芸術である」と公言していたエルガーにとって、交響曲というもう一つの大きな目標に向かって始動する時期でもあった。
下記の表の通り、この「神の国」の完成までエルガーは比較的短い周期で宗教作品を作曲し続けているが、その後、その頻度は少なくなり、規模も小さなものになってくる。
同時に彼の内面における信仰心にも何らかの変化があったことは事実だろう。

 

初演は成功に終わり、翌日の「バーミンガム・メイル」紙で「サー・エドワード・エルガーは彼の作品を指揮しながら感極まり、演奏中に何度も涙が頬を伝わって流れた」と報じている。
この涙には理由がある。ちょどこの作品が完成する直前、彼は敬愛する父親ウィリアム・ヘンリー・エルガーを失っている。
更には、その3年前の前作「使徒たち」を作曲した年には、母アンが亡くなった。これら2つのことを同時に思い出していたものと思われる。
これら2つの大作を作曲した年に愛する人を失ったという偶然的な出来事が、彼の心に引っかかり、結局「最後の審判」を完成させることを躊躇したという推測は考え過ぎだろうか?

 

 

 

声楽を伴うエルガーの主な宗教曲

 

作曲年      作品名              備考
1880-98   Salutaris Hostias 1-3
1887    Pie Jesu             1902にAve Verm Corpusとして改作
1887    Ave Maria             1907改作
1887    Ave Maris Stella          1907改作
1892    The Black Knightカンタータ
1896    The Light of Life           別名Lux Christe
1896    Scene from the Saga of King Olaf
1897    The Banner of St. George
1897    Te Deum & Benedictus
1898    Caractacus            カンタータ
1900    The Dream of Gerontius
1903    The Apostles
1906    The Kingdom
-      The Last Judgement        未完
1911    O Hearken Thou
1912    Great is the Lord         アンセム
1912    The Music Makers         カンタータ
1914    Give Unto the Lord        アンセム

 

 

そう、ここで思い当たるのが、彼の人生にとって極めて重要な影響を与えた人々と出会いと別れが集中していた時期が 1910年を前にしたころなのである。
以下に、それぞれ事象の年号を表記してみた。

 

エルガーと彼らの結びつきを考えると、彼が作風をガラリと変えてしまうほどの影響力があったこと、あながち関係がないとは思えないのである。
ウィンドフラワーとの衝撃的な出会いから狂おしいまでの恋愛感情・・・・・。
そして、最愛の友人や肉親の死。
それが第2交響曲の痛ましいまでに咽び泣くカンタービレとなり、第3楽章の狂ったように迷走するスケルツォへとなったのではないだろうか?

 

 

1902年 ウインドフラワーことアリス・ステュワートとの出会い

 

妻アリスに次いでエルガーの創作の上で大きな影響を与えたのが、このウィンドフラワーの存在である。ウィンドフラワー=アネモネとは、エルガーが彼女に与えたニックネームである。
1902年に知り合って以来エルガーが没するまで二人の友情は続いた。
彼女はラファエル前派の画家サー・ジョン・エヴァレット・ミレーを父親に持ち、政治家チャールズ・ステュワートの夫人となった。ハムステッドの家「セヴァーン・ハウス」をエルガーのために見つけてきたのも彼女である。
ハムステッドといえばラファエル前派の画家を始め多くの芸術家が好んで住んだ場所であり、こういったところはミレーの娘らしい選択である。
ハムステッド・ヒースでは仲良く散策する二人の姿がよく見かけられた。アリスは、二人のそんな関係を理解しており、一度も嫉妬めいたことを言って咎めたことはなかったという。エルガーの芸術的な創作に何が必要なのかを最も理解していたのがアリスであった。アリスは、この同じ名前を持った彼女への手紙にいつも「私と同じ名前の可愛いアリスへ」と書いていたという。
エルガーが彼女に公式に捧げた曲は歌曲《祈り》という一曲のみ。しかし、そこには「ワートリー夫人へ」という、エルガーが決して呼んだことのない呼び名を記しているため、どこかよそよそしさが感じられる。
献呈はされていないが、むしろ他の作品にこそ、彼女の影響の大きなものが感じられる。
まず、《ヴァイオリン協奏曲》の「ウィンドフラワー・テーマ」と呼ばれる第1楽章第2主題の甘美なメロディ。
エルガーはこの曲を指して「あなたの協奏曲」とまで手紙に書いている。
また「あなたがこの曲を指揮してくれて、私が客席で聴くことができたらどんなにいいだろうか・・・
あなたはどこにいようとも、この曲を好きなようにできるのです」
「私は指揮台から、いつもあなたが座っているであろう座席を見ているのです」とも。
この曲のスコアにはスペイン語で「ここに・・・・・の魂を封じ込めている」と書かれているが、この伏せ字の部分は彼女の名前が隠されているのではないかと推測されている。
この第2主題部分はエネスコがメニューインに向かって「実に英国的だ」と語った部分である。
メニューインは1932年に作曲者との録音を行った際の思い出を述べている。
「当時、私がこの部分を演奏するには人生の経験が浅かった。今なら当時とはまた違った演奏ができるであろう」
メニューインは、この部分が作曲者のメンタルな恋愛感情を表現しているものであるということを仄めかしている。
《交響曲第2番》のスコアの最後に書かれた「ティンタジェル」は作曲当時エルガー夫妻が、保養中の彼女を訪ねた土地の名前である。
また「この曲はあなたの交響曲なのです」と手紙にも書いているなど、エルガーの彼女に対する強い思いを感じ取ることができる。
更には未完に終わった《ピアノ協奏曲》を彼女に捧げるという願いが、最後まで病床の彼を作曲に向かわせたのである。残された緩除楽章断片は、まるでラフマニノフを思わせるような濃厚なロマンチシズムに溢れている。

 

 

 

 

1903年 アルフレッド・ロードウォルド没

 

エルガーが極めて信頼していた親友の指揮者で、1901年に行進曲「威風堂々」第1番と第2番をリヴァプールで初演した人物。
同曲は彼に献呈されている。交響曲第2番の第2楽章の葬送行進曲は彼の死を悼んだものといわれている。

 

 

1903年  母アン・エルガー没

 

1903年のバーミンガム音楽祭のためのオラトリオ「使徒たち」の完成を前に母アンが亡くなっている。
エルガーは「カラクタクス」を母のアドバイスによって、その題材を得ている。

 

 

 

 

1905年  ジュリア・ワーシントンとの出会い

 

《ヴァイオリン協奏曲》スコアに書かれた謎のもう一人の候補(ストコフスキーはこの説の支持者)。
エルガーは彼女に《4つのパートソング》の第2曲目「我が魂の奥深く」を捧げている。
1905年ニューヨークでエルガーは彼女に初めて会っている。
その後、彼女はイタリアに暮らしており、エルガーがイタリア滞在の際には連れだって劇場などに出かけたという。
また、エルガーのパトロン的存在であるフランク・シュースターの家「ザ・ハット」で催されたパーティーに、エルガー夫妻やウィンドフラワーなどと共に招かれたりしていた。残された書簡があまり多くないので詳しい事情は不明の点が多いのである。
(ゆえに謎のアメリカ人女性とも言われている)が、明らかにエルガーにとっては強い影響を与えられる存在であったようだ。

 

 

 

1906年父ウィリアム・ヘンリー・エルガー没

 

オラトリオ「神の国」が完成する直前、彼は敬愛する父親ウィリアム・ヘンリー・エルガーを失っている。

 

 

 

 

1909年アウグスト・イエーガー没

 

「エニグマ変奏曲」第9変奏ニムロドのモデルとなった人物。
エルガーの親友でありノヴェロ社に勤めていた。

 

 

 

1910年サミュエル・サンフォード没

 

1905年、エルガーはエール大学のサンフォード教授の招きでアメリカへと渡り同大学より音楽博士の称号を授かっている。エルガーは同年作曲の「序奏とアレグロ」をサンフォード教授に献呈している。

 

 

 

1911年エドワード7世崩御

 

エルガーが交響曲第2番を献呈。
エドワード7世はエルガーの理解者でもあり、エルガーにとってどれほど心強い味方であったことか。
いわば、ワーグナーにとってのルートヴィヒ2世の存在のようなものだといえるだろう。
第2楽章の葬送行進曲は当初、国王の死を哀悼するものであると言われた。

 

――エドワード・エルガーの創作様式における断層とその要因についての一考察――

はじめに

エドワード・エルガー(Edward Elgar, 1857–1934)の作品群には、創作時期に応じた作風の変遷が顕著に認められる。とりわけ1910年前後には、彼の音楽表現において劇的な様式的・精神的転換が生じており、これが従来から筆者の関心を惹きつけてきた。エルガーの創作期は一般に初期(1867–1898)、中期(1899–1919)、晩年期(1922–1933)の三期に大別されるが、この中期、特に1910年前後における彼の創作上の変化とその背景にある心理的・宗教的要因、さらには人間関係の変動に着目する。

 

エルガーの創作時期と作風の転換

エルガーの創作史における中期(1899–1919)は、《エニグマ変奏曲》(1899)に始まり、《チェロ協奏曲》(1919)に至る20年間を指す。この時期、エルガーは国際的な名声を確立し、王室作曲家としての地位も得るなど、社会的成功の頂点を迎えていた。にもかかわらず、1910年に作曲された《ヴァイオリン協奏曲》と翌年の《交響曲第2番》のあいだには、作風に著しい断層が認められる。

 

前者にはロマンティシズムと感傷的美意識に彩られた叙情性が顕著であり、全体として希望と昂揚感が支配的である。一方、《交響曲第2番》には、現世への憂鬱、死生観の深化、自己省察的傾向、さらには逃避的とも評し得る心理的構造が顕在化している。とりわけ第3楽章のスケルツォにおける過剰な動的混乱、及び終楽章における内的静寂と諦念の対比は、単なる技法的発展にとどまらず、作曲者の精神的地平の変化を如実に物語るものである。

 

名声と虚無の交錯:1910年の心理的断絶

1910年、エルガーは名実ともに英国を代表する作曲家であった。この年の《ヴァイオリン協奏曲》の成功により、その評価は決定的なものとなったはずである。しかしながら、妻アリスの証言によれば、彼は同年、自死をほのめかすような言動を示していたという。これは単なる抑うつ的傾向ではなく、彼の芸術的誠実さと社会的成功との乖離がもたらした深刻な内的葛藤を示唆している。

 

エルガーは生涯にわたり、作品において二重の動機づけ――すなわち、純粋な内発的衝動に基づく作曲と、外的要請や社会的期待に応じた作曲――のあいだで引き裂かれていた。1910年前後は、これら両極の葛藤が最も顕著に現れた時期であり、創作の主体性と倫理性に対する懐疑が音楽的表現の内部に刻印されたのである。

 

宗教観の変容と未完の三部作

エルガーの精神的構造の核心に宗教性があったことは広く認められている。とりわけ《ゲロンティアスの夢》(1900)、《使徒たち》(1903)、《神の国》(1906)からなる、未完に終わった三部作構想にその表れが明白である。これらは全て新約聖書を基盤としつつ、神秘思想や個人的信仰を反映した巨大な宗教的音楽劇である。

 

少年期にリトルトン・ハウス校で耳にした「使徒たちは特別な人間ではなかった」という校長フランシス・リーヴの言葉が、エルガーにキリスト教的ヒューマニズムへの関心を抱かせたという逸話は、この宗教三部作の思想的出発点と見なされるべきである。しかし、三部作の完結編である《最後の審判》はついに作曲されなかった。その理由としては、多忙による時間的制約が挙げられるが、より本質的には、作曲者の信仰そのものの変容、あるいは宗教的感情の収束が考えられる。

 

また、《神の国》の完成直前には父ウィリアムの死が、その3年前には母アンの死があった。これらの喪失体験と宗教作品との結びつきは、エルガーにとって単なる偶然ではなかったであろう。死と宗教の不可分性、そして芸術創作との関係が、以後の彼にとって重いテーマとして内在化された可能性がある。

 

人間関係の変動と「ウィンドフラワー」の影響

宗教観の変容と並んで、1910年前後のエルガーにとって決定的であったのが、人間関係における劇的変動である。1902年、彼はアリス・ステュワート(AliceStuart-Wortley)と出会い、彼女に「ウィンドフラワー(Windflower)」という愛称を与える。彼女との関係は、明確な証拠が残されていないものの、深い情愛を伴う精神的交情であったとされる。

 

《ヴァイオリン協奏曲》には「ここに*****の魂を込める」と記された暗号的献辞があり、彼女の存在がこの作品に影響を与えたことはほぼ確実視されている。一方、《交響曲第2番》では、彼女との関係をめぐる内的苦悩、さらにはそれを取り巻く社会的制約への苛立ちが、音楽的に昇華されたと見ることができよう。作風の変質は、個人的愛情の深化と破綻、そして老成期に差しかかる作曲家としての自己認識の反映でもあった。

 

おわりに

1910年という年は、エルガーにとって単なる年代的な節目ではなく、芸術家としての価値観の転換点であった。宗教的世界観の変化、親族や重要人物の死、そして恋愛的情動の錯綜は、彼の創作の様式やモチーフに決定的な影響を及ぼしている。

 

《交響曲第2番》以降の作品に顕著な、後期ロマン派的センチメントや諦念の美学は、エルガーがそれまで拠って立っていた道徳的・宗教的基盤の動揺と軌を一にしているのである。ゆえに、1910年のエルガーに何が起こったのか、という問いに対しては、「名声の背後で瓦解した信仰と自己像」という一語がふさわしいのかもしれない。

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