エルガーカントリーへの誘い

St. ジェームズプレイスの家

1921年、エルガーは長年暮らした「セヴァーン・ハウス」を引き払い、ロンドン中心部セント・ジェームズ・プレイスへと転居する。セント・ジェームズ宮殿にほど近く、グリーン・パークに隣接したこの地は、大都会ロンドンの心臓部にありながら、不思議なほど静謐な空気を保っていた。

 

ほど近くには、1889年に《エニグマ変奏曲》の初演が行われ、エルガーが作曲家としてようやく公的な評価を得た、あのセント・ジェームズ・ホールがあった。しかし、この地理的近接は、彼にとって祝福ではなく、むしろ過去を否応なく想起させる装置として作用したに違いない。かつての成功の記憶は、もはや現在を照らす光ではなく、すべてが「終わってしまったもの」として彼の前に横たわっていた。

 

創作の根幹を支えてきたアリスの死とともに、エルガーの内なる創造の炎は、急速にその勢いを失っていく。以後の作品群には、かつての奔流のようなエネルギーは見られず、残り火が静かにくすぶるかのような佇まいが支配的となる。大作と呼べる作品はほとんど姿を消し、小規模で内省的な作品が中心となっていった。

 

そのような晩年の中にあって、1923年の《アーサー王(劇付随音楽)》は例外的な存在である。比較的規模の大きなこの作品には、なおもエルガー特有の壮大なオーケストレーションが息づいており、完全な沈黙に至る前の、最後の閃光を見る思いがする。しかも、この音楽素材は後年、交響曲第3番へと引用されることになる。創作の終焉に向かう過程にあっても、エルガーの音楽はなお未来へと微かな痕跡を残していたのである。

 

St. ジェームズプレイスの家

 

グーグルマップ

創作が終息していく空間の記録

エルガーの晩年を辿るとき、そこに現れるのは作品の年表以上に、彼が身を置いた「空間」の変化である。
それらはいずれも創作を生み出す場でありながら、同時に創作が静かに終息していく過程を刻印した場所でもあった。

 

「セヴァーン・ハウス」は、なお作曲家としての気力と社会的地位が保たれていた最後の拠点であった。専用の音楽室を備え、第一次世界大戦という激動の時代を背景にしながらも、ここではまだ音楽が未来を向いていた。しかしこの家は、同時に妻アリスの死という決定的な断絶を刻み込む場所ともなる。創作の基盤そのものが失われた瞬間である。

 

その後に移り住んだセント・ジェームズ・プレイスは、ロンドンの中心にありながら、驚くほど静かな環境を備えていた。だが、この静けさは創作を促すためのものではなく、むしろ過去を反芻するための沈黙であった。すぐ近くに《エニグマ変奏曲》初演の地セント・ジェームズ・ホールが存在していたという事実は、象徴的ですらある。かつての栄光は、もはや現在を駆動する記憶ではなく、回収不能な過去として彼の前に立ち現れていた。

 

この時期以降、エルガーの作品は急速に縮小していく。大規模な構想は影を潜め、断片的で内向的な作品が増えていく。それは才能の衰退というよりも、創作を生み出す必然性そのものが失われていった結果と見るべきだろう。音楽を書く理由が、もはや彼の内側に存在しなかったのである。

 

それでもなお、《アーサー王》のように一瞬の回光返照を思わせる作品が生まれている点は重要である。そこには、かつての壮大なオーケストレーションの記憶が確かに残っており、その素材が交響曲第3番へと引き継がれていく事実は、創作が完全に断絶したのではなく、緩やかに沈静化していったことを示している。

 

エルガーの晩年の住居は、創作の「場」であると同時に、創作が終わっていく「証拠」でもある。
それらの空間は、何かを新たに生み出すために存在したのではなく、すでに生み出された音楽と共に生き、やがて沈黙へと向かうための場所だった。

 

エルガーの沈黙は、突然訪れたのではない。
それは、住む場所を変えながら、静かに、確実に進行していったのである。

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