愛の音楽家エドワード・エルガー

What if フルトヴェングラー × エルガー:共鳴するロマン主義の霊性

フルトヴェングラーがエルガーの交響曲や《ゲロンティアスの夢》、あるいは《エニグマ変奏曲》を指揮していたらどうなっていたか――これはもしもの想像ではあるが、非常に示唆的な音楽的仮想である。実際にフルトヴェングラーはエルガーを取り上げた記録はない(少なくとも確実な演奏記録や録音は存在しない)が、彼の芸術理念や音楽哲学をエルガーの作品に当てはめて考えることは可能である。

 

フルトヴェングラー × エルガー:共鳴するロマン主義の霊性
緩やかなテンポ、彫刻的な構築

フルトヴェングラーは、楽曲の内在的なエネルギーの流れをとらえ、時間を彫刻するように音楽を進行させた。「構造ではなく運動」と彼は語ったが、エルガーの交響曲、特に第2番はまさにその「流れ」と「テンポの自由」が重要な鍵である。ゆえに、彼の手によるエルガー第2交響曲は、シノーポリやバルビローリに匹敵する、いやそれ以上の精神的深さを持った、強い弛緩と緊張の対比が生きた演奏になっただろう。

 

たとえば第1楽章の冒頭主題は、おそらくぐっとテンポを遅く取り、内面のうねりを込めた重厚な響きで開始したはずだ。第3楽章のスケルツォでは、激しさと苦悶を混在させたような、**「歓喜に似た戦慄」**が描かれた可能性が高い。終楽章では「この世の輝きが残響として続く」ようなカタストロフと浄化が実現されただろう。

 

《ゲロンティアスの夢》:バイロイト的神秘

《ゲロンティアスの夢》はエルガーの宗教的霊性が頂点をなす作品であり、その意味でフルトヴェングラーのワーグナーやブルックナーへのアプローチと親和性が非常に高い。

 

とりわけ第2部の審判の場面――「I go before my Judge」――では、フルトヴェングラーらしい、息詰まるような静寂と、突如として天から稲妻が落ちるような頂点とのコントラストが想像される。彼の特性である神秘的な低弦のうねり、内的エネルギーの爆発、計算され尽くした即興的テンポルバートが、エルガーの最も精神的な音楽に魂を吹き込んだに違いない。

 

この場合のモデルは、1942年の《第九》や1951年の《バイロイト第九》のような、人類的視野を持った宗教的高揚感を持つ演奏になっただろう。

 

《エニグマ変奏曲》:友人たちの肖像が神格化される

《エニグマ変奏曲》のような性格的小品の連作でも、フルトヴェングラーが指揮すれば、その一つ一つが肖像画ではなく精神的なレリーフ彫刻のような性格を帯びただろう。特に《ニムロッド》は、彼が《マタイ受難曲》や《第九》に込めた祈りに似た遅さで演奏され、人類的、哲学的、精神的な深みを備えた黙想的瞬間となったに違いない。

 

終曲「E.D.U.」では、誇張ではなく、ワーグナーの《神々の黄昏》終結部と同じような崇高と死と光明の交錯が描かれたであろう。

 

フルトヴェングラーとエルガー:魂の鏡像か?

一見、ドイツの精神主義と、イギリスのジェントルなロマン主義は相容れないように見える。しかし、エルガーの中にはしばしばベートーヴェン的、ブルックナー的な建築性と、内的苦悩を昇華する意志がある。

 

エルガー自身がブラームスやワーグナーに深い敬意を抱いていたこと、そして彼の音楽がサウンドの豪奢さを超えて、人間存在の深層に触れることを求めていたことを考えると、フルトヴェングラーはおそらく、最も精神的に共鳴しうる存在だったかもしれない。

 

もし幻の録音がもしあったなら

もしフルトヴェングラーがエルガー作品を録音していたら、それは間違いなく「エルガー像を一変させる」歴史的遺産になっていたに違いない。彼の演奏は、おそらくいかなる指揮者とも異なる、深い精神性、流動的構築、時間と空間の緊張と解放によって、エルガーを「イギリスの作曲家」ではなく「人類の精神音楽の担い手」として昇華させたであろう。

 

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