「本当の音楽は155番以降から始まる」
「本当の音楽は155番以降から始まる」――エルガーが交響曲第2番について、ジョン・バルビローリに語ったこの言葉は、単なる作曲家の感慨ではなく、作品構造と音響設計に対する深い自覚を示す、極めて示唆的な証言である。
交響曲第2番第4楽章終盤、音楽は激しい情動を離れ、静謐な沈静へと向かう。その過程で、弦楽器群とハープが織りなす繊細なアルペッジョが空間を満たし、音楽は次第に透明度を高めてゆく。この部分における美しさは、単に聴覚的な快楽にとどまらない。スコアに刻み込まれた音符の配置そのものが、視覚的造形としても驚くべき均衡と流動性を備え、作曲家の精神が紙面の上に結晶化しているかのようである。
エルガーの管弦楽書法において際立つ特徴の一つは、第一ヴァイオリン群と第二ヴァイオリン群との緊密な掛け合いにある。彼の時代、オーケストラの標準配置は、いわゆる「両翼配置」であり、客席から見て左に第一ヴァイオリン、右に第二ヴァイオリンが配されていた。この配置においては、旋律が左右に受け渡されることで、音響は平面的でなく、立体的な広がりをもって知覚される。エルガーが好んで用いたこの書法は、まさにこの音響効果を前提としたものであり、旋律の交錯そのものが、空間的ドラマとして構想されているのである。
しかし20世紀以降普及した、いわゆる「ストコフスキー・シフト」と呼ばれる対向配置――第一・第二ヴァイオリンを並置する形――においては、この効果は著しく減殺される。旋律の応答関係は左右の空間移動を失い、音響的立体感は平板化してしまう。そもそもエルガーの時代にはこの配置法は存在せず、彼の書法は一貫して両翼配置を前提として構築されている。したがって、エルガーの交響曲をこの対向配置で演奏することは、作曲家が意図した音響的設計を根本から歪める行為に等しい。
にもかかわらず、現代においてこの点への配慮が欠如した演奏が少なくないのは、きわめて遺憾である。それは単なる慣習や利便性の問題ではなく、作品理解そのものの深度が問われる問題である。エルガーの交響曲は、音符の正確な再現だけで成立する音楽ではない。そこには、響きの方向性、空間的配置、聴覚心理に至るまでを包含した、総合的な音響構築が存在する。
とりわけ第2交響曲終楽章終盤において、「155番以降」に立ち現れる音楽の透明な静寂は、両翼配置によって初めて本来の姿を現す。旋律が左右を行き交いながら、やがて空間全体へと溶解していくその過程こそ、エルガーが「本当の音楽」と呼んだ瞬間の核心であろう。そこにおいて私たちは、単なる美しさを超えた、深い精神的充足と崇高さに触れるのである。
エルガーの交響曲を演奏するとは、単に音を鳴らすことではない。作曲家が思い描いた音響空間そのものを、現代において再構築する行為なのである。その責務を自覚しない演奏は、どれほど技巧的に完成されていようとも、作品の核心には到達し得ない。




