ウッド・マジック・・・最大の悲しみ

誰のエルガーか――作曲者自演版《チェロ協奏曲》という異議申し立て

リチャード・ディッケンズ指揮、ラファエル・ウォルフィッシュ独奏、ロイヤル・リヴァプール・フィルによるエルガー《チェロ協奏曲》は、現代の標準的演奏慣行とは明確に一線を画す。
この演奏が強く意識しているのは、1928年に行われた作曲者自身の指揮、ビアトリス・ハリソン独奏による歴史的録音である。

 

今日われわれが「当たり前」のように聴いているエルガーのチェロ協奏曲は、実のところ、作曲者の最終的意思をそのまま反映したものではない。
校訂家ジョナサン・デル・マーが指摘している通り、この作品は出版段階ですでに複数の改訂を被っており、その結果、後世に定着したスコアは、エルガー自身が実際に鳴らした音楽とは少なからず乖離している。

 

重要なのは、エルガーがハリソンと行った二度の録音である。
そこに用いられたスコアは、後に一般化した版とは細部において異なり、テンポ感、フレージング、独奏と管弦楽の力関係において、より簡素で、より即物的である。
デル・マーは、このスコアこそが真の原典であると主張するが、厳密に言えば、これは「原典版」というよりも、**「作曲者自演版」**と呼ぶ方が相応しい。

 

ディッケンズとウォルフィッシュの演奏は、その自演版の精神を、21世紀的な解像度で再構築している。
音楽は決して重くならず、感情は誇張されない。
第1楽章冒頭の独奏も、沈痛な嘆きというより、淡々とした事実の提示のように語られる。
ここには、デュ・プレ以降に定着した「悲劇のモノローグとしてのエルガー」は存在しない。

 

この演奏が突きつける問いは明確である。
「われわれが愛してきた《チェロ協奏曲》は、本当にエルガーのものだったのか?」

 

20世紀後半、この作品は、演奏家と聴衆の感情史の中で肥大化していった。
テンポは引き延ばされ、旋律は泣き、終楽章は絶望の淵へと沈められた。
それらは確かに強烈な表現であり、否定されるべきものではない。
しかし同時に、それはエルガーが残した音楽の一つの読みに過ぎない。

 

作曲者自演版が示すのは、より冷静で、より抑制されたエルガー像である。
そこには激情よりも距離があり、悲嘆よりも諦観がある。
人生の終盤に差し掛かった作曲家が、過去を振り返りながら、感情を整理するように書いた音楽――
それが本来の《チェロ協奏曲》だったのではないか。

 

ディッケンズ/ウォルフィッシュ盤は、単なる歴史的再現ではない。
それは、現代において忘れ去られつつある
「作曲者の耳」
「作曲者の時間感覚」
を取り戻そうとする、静かな異議申し立てである。

 

この演奏を聴いた後では、もはや《チェロ協奏曲》を一つの顔だけで語ることはできない。
エルガーの音楽は、再び問い直される地点に立たされている。

 

原典主義はエルガーに有効なのか

――「書かれた音楽」と「鳴らされた音楽」のあいだで

 

「原典主義(Urtext)」という概念は、本来、テクストが比較的安定している作曲家に対してこそ力を発揮する。
バッハやモーツァルト、あるいはブラームスにおいて、原典主義は「作曲家の意図に近づくための最短距離」として一定の説得力を持つ。

 

では、エルガーにおいてはどうか。
結論から言えば、原典主義はエルガーに対して半分しか有効ではない。

 

なぜならエルガーは、
「書いたこと」と「実際に鳴らしたこと」が一致しない作曲家
だからである。

 

 

1. エルガーは「確定稿」を信じなかった作曲家

 

エルガーは、スコアを完成形とは考えていなかった節がある。
彼は自作を指揮するたびに、テンポを変え、バランスを変え、時に音符すら変えた。

 

有名な例が、

 

交響曲第2番終楽章のトランペット高音Hの延長

 

チェロ協奏曲におけるテンポ、アクセント、独奏と管弦楽の関係

 

ヴァイオリン協奏曲におけるクライスラー編曲の有無

 

などである。

 

これらの変更の多くは、スコアには明記されていない。
つまり、エルガーにとって「原典」とは、紙の上ではなく、演奏の場において成立するものだった。

 

この時点で、通常の意味での原典主義はすでに足場を失っている。

 

 

2. 作曲者自演録音という「もう一つの原典」

 

エルガーの場合、特異なのは、作曲者自身による録音が比較的多く残されている点である。

 

特に重要なのが、

 

《チェロ協奏曲》(ハリソン独奏・作曲者指揮)

 

《ヴァイオリン協奏曲》(リード版かクライスラー版か)

 

 

これらは単なる参考資料ではない。
むしろ、**「音としての原典」**と呼ぶべき存在である。

 

ジョナサン・デル・マーが主張するように、チェロ協奏曲に関して言えば、出版譜よりも、これらの録音に使われたスコアの方が、作曲者の実際の意図に近い可能性が高い。

 

だがここで問題が生じる。

 

 

3. 録音は「一回性の真実」でしかない

 

作曲者自演録音は強力な証拠である。
しかし同時に、それはその日の演奏、その場の判断でもある。

 

エルガーは同じ作品を、日によって、演奏会によって、まったく異なる表情で振っていた。

 

つまり録音は、

 

永遠の規範
ではなく

 

その瞬間の決断

 

に過ぎない。

 

原典主義が求める「唯一の正解」は、ここには存在しない。

 

 

4. エルガー作品における最大の誤解

 

20世紀後半、特にデュ・プレ以降、エルガーは
「重く、遅く、感情過多な作曲家」
として固定化された。

 

このイメージは、原典からの逸脱であると同時に、
皮肉にも「演奏伝統」という名の第二の原典を形成してしまった。

 

ここで原典主義が果たす役割は重要である。
それは、この肥大化した伝統を相対化するための道具としてである。

 

原典主義は、エルガーの真実を「決定」するためではなく、
誤解を剥ぎ取るためにこそ有効なのだ。

 

 

5. エルガーにおける原典主義の正しい使い方

 

原典主義は、エルガーにおいて、

 

絶対的規範 → ❌

 

批評的視座 → ⭕

 

としてのみ機能する。

 

スコア、初稿、自筆譜、改訂譜、作曲者自演録音。
それらすべてを並べたうえで、

 

「では、今この音楽をどう鳴らすのか」

 

を問うための材料――
それが、エルガーにおける原典主義の正しい役割である。

 

エルガーの音楽は、博物館に収めるためのものではない。
彼自身がそうであったように、常に未完で、常に揺れている音楽なのだ。

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