再びロンドンへ

ローレンス・ビニヨンの音楽

 

Elgar: The Binyon Settings

 

 

ローレンス・ビニヨンの音楽

 

アンソニー・ペインによって補完されたエルガーの交響曲第3番において、その主要な構成要素として用いられているのが、組曲《アーサー王》の素材である。したがって、この《アーサー王》を含む録音は、単なる付随作品ではなく、交響曲第3番という“後期エルガー神話”を理解するための重要な参照点となる。

 

この《アーサー王》は、これまで録音が事実上一種しか存在せず、本盤は待望の第2録音となる。その意味で、ディスコグラフィ的価値は極めて高い。

 

本盤でもう一つ注目すべき作品が《Carillon》である。
本作は、ドイツ軍に侵攻されたベルギー国民を鼓舞する目的で、詩人エミール・カマエルツ(Émile Cammaerts)の詩に基づき、エルガーが作曲した作品である。オーケストラを伴奏に、男声俳優が語りを担う形式で書かれており、歌唱ではなく朗誦によって進行する点で、ベルリオーズの《レリオ》を想起させる。

 

原曲は1914年、すなわち第一次世界大戦の勃発と深く結びついた作品である。しかし本盤に収められているのは、ローレンス・ビニヨンの詩に差し替えられたヴァージョンであり、その成立は1942年に遡る。すなわち、背景にあるのは第二次世界大戦である。

 

1942年といえば、ビニヨンの最晩年にあたる。彼は翌1943年に没している。ここで用いられた言葉は、単なる詩の代替ではなく、時代を超えて反復される「戦時の声」として機能している点が重要である。

 

これまでエルガーの作品は数多くの企画録音によって再解釈されてきたが、エルガーとローレンス・ビニヨンという関係性に正面から焦点を当て、それを一つのプログラムとして束ねる試みは、ほとんど前例がない。

 

本盤は、エルガーの音楽を「作曲家個人の表現」としてではなく、
詩人と言葉、戦争と時代精神との交差点に位置づける点において、極めて意義深いリリースである。

 

単なるレア作品集ではない。
これは、エルガーが生きた時代と、その声が再び呼び出される仕組みを可聴化した一枚である。

 

ビニヨンという「言葉の媒介者」

ローレンス・ビニヨンは、詩人である以前に、声を通過させる存在であった。
彼の言葉は自己表現として前に出るのではなく、時代・死者・共同体といったものを代弁し、音楽へと手渡すためにある。

 

《For the Fallen》に典型的なように、ビニヨンの詩は「語る主体」が曖昧である。
そこにいるのは〈私〉ではなく、すでに失われた者たち、あるいは彼らを記憶する集団の声だ。詩人は語らず、語らせる。

 

この性質は、エルガーの音楽と決定的に響き合う。
エルガーもまた、自分自身を直接語る作曲家ではない。彼の音楽は常に、誰かの背後に立ち、沈黙や祈り、未完や回想を“通過”させる構造を持っている。

 

《Carillon》において、
歌ではなく朗誦が選ばれていることは象徴的である。
旋律に乗せて感情を表出するのではなく、言葉がそのまま音楽の中を歩いていく。
ここでビニヨンの詩は、第一次大戦の詩を第二次大戦の現実へと翻訳する「再媒介装置」として機能する。

 

重要なのは、ビニヨンが「意味を付け加えない」点である。
彼は歴史を説明せず、思想を主張せず、ただ言葉を正しい位置に置く。
だからこそ、エルガーの音楽は言葉に侵食されることなく、逆に言葉を抱え込むことができる。

 

アンソニー・ペインが補完した交響曲第3番第4楽章において、
《アーサー王》の素材が儀式的に再配置されるのも、同じ構図である。
作曲家本人の声はすでに不在だが、音楽はなお語られる。
そのとき必要なのは「新しい作者」ではなく、声を正しく通す媒介者である。

 

エルガーにとって、
ビニヨンとは詩人ではなく、
沈黙が言葉になる瞬間を保証する存在だったのではないか。

 

このディスクが示しているのは、
エルガー音楽の本質が「旋律」や「様式」ではなく、
声が誰のものでもなくなる地点にあるという事実である。

 

再生リスト

ローレンス・ビニヨンの音楽

日本エルガー協会新刊「エルガーの最後の審判-語られなかった真の作曲家像」はこちらから

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