タスミン・リトルのヴァイオリン協奏曲
エルガーの魅力は緩除楽章にあり・・・・。
エルガーのその誠実で温かなパーソナリティが伝わってくる作品。
それは愛のあいさつであり、朝の歌、ソスピリ、弦楽セレナーデなど。
共通するのはアンダンテやアダージョといった遅いテンポの曲想であることがよくわかる。
このヴァイオリン協奏曲には、エルガーのあふれるばかりの愛がこめられている。
タスミンの演奏は正にエルガーの愛を十分に感じ取り、やさしく丁寧に音にして紡ぎだしている。
指揮者デイヴィスともどもエルガーの愛をしっかりと音にして見せている。
例えば、第一楽章が終わった時点で聴衆の拍手が巻き起こる。
この拍手は、曲の終わりと勘違いして巻き起こった拍手ではない。
本当に凄い演奏で感動して巻き起こった拍手であることが伝わる。
この演奏は英国ロンドンの夏の音楽祭プロムスで行われたものである。
集まっている観客はエルガーの音楽に日々触れる機会の多い人たちばかりである。
そんな彼らが第一楽章の終わりを曲の終わりと勘違いすることなどまずありえない。
いわば、彼らはエルガーの音楽を聴く耳は確かなのであるから。
過去にも、メニューイン独奏、ボールト指揮による同曲のプロムス開催中でも同じように第一楽章終了後に感動の拍手が巻き起こったことがある。
「内なる声」の継承——タスミン・リトルのエルガー《ヴァイオリン協奏曲》における詩情と倫理
エルガーの創作において、緩徐楽章が占める比重は決して偶発的なものではない。それは単なる楽章構成の問題ではなく、彼の音楽に通底する倫理的構え——すなわち、自己を過剰に語ることを慎みつつ、誠実に内なる声を掬い取ろうとする態度——に直結している。エルガーにとって、音楽は抒情であると同時に、内面的対話の場であった。《愛のあいさつ》《朝の歌》《ソスピリ》、そして《弦楽セレナーデ》といった小品群にそれが明瞭であることはよく知られているが、その精神は《ヴァイオリン協奏曲ロ短調》という大規模な形式においても一貫して維持されている。
この協奏曲が真に偉大な作品であるのは、技巧的達成よりもむしろ、その音楽が秘める「時間の倫理」にある。すなわち、音楽が立ち止まり、躊躇し、思い返し、語りなおすという構造を持っているという点においてである。第一楽章終結部の迷いにも似た和声的回想、第二楽章の無言の問いかけ、そして第三楽章カデンツァに至ってようやく開示される自己の記憶——これらは、作曲家が独白を紡ぐように書き上げた、きわめて個人的な音楽である。
タスミン・リトルの演奏は、このようなエルガーの音楽に秘められた内的構造と詩情を、比類ない共感と緻密な解釈によって浮かび上がらせる。2009年、ロンドンのプロムスにおけるアンドルー・デイヴィスとの共演では、そうした彼女の資質が最大限に発揮された。特筆すべきは、その演奏が単なる懐古趣味に堕することなく、エルガーの音楽の「いまここにある声」を真摯に聴き取ろうとする現代的態度を備えていたことである。テンポは緩やかに保たれつつも、決して弛緩せず、音のひとつひとつに内的緊張が宿っていた。
とりわけ印象的であったのは、第一楽章終結直後に沸き起こった拍手である。プロムスの聴衆は、日常的にエルガーの音楽に親しんでいるいわば「目利き」であり、その彼らが楽章終止を曲の終結と誤認するとは考えがたい。むしろそれは、演奏が聴衆の心を突き動かし、形式的区切りを超えて感情の発露を促した結果と見るべきである。メニューイン=ボールトの伝説的プロムス公演においても同様の現象が生じたことを思えば、この協奏曲の本質が、まさに「語り」としての音楽にあることを再確認させられる。
タスミン・リトルは、ケネディのような外向的演奏とは一線を画し、感情を内奥に沈潜させながらも、決して淡白に終わらない豊穣な語り口を持つ。その表現は、エルガー音楽の核心である「内に燃える炎」を見事に掬い上げる。彼女の演奏におけるフレージング、音色のニュアンス、そして休符の間の沈黙すらも、エルガーの人格そのものを映し出す鏡のように響いていた。
この演奏は、単なる名演という範疇を超えて、エルガーの音楽が未来へと語りかける可能性を示した点で重要である。伝統とは、過去を繰り返すことではなく、過去が今にどのように息づくかを問い直す営みである。タスミン・リトルの《ヴァイオリン協奏曲》は、その問いに対するひとつの模範解答であったといえるだろう。