「神の国」のスコア

エルガーのオラトリオ《神の国(The Kingdom)》のスコアを手に取ると、そこに付された副題 Jerusalem が目に留まる。この副題は、今日われわれが接する《神の国》の出版物や演奏会プログラムでは、ほとんど見かけることがない。むしろ、副題を付さない形の方が現在では標準といってよいだろう。
しかし、このスコアの巻末に掲載されたエルガー作品一覧を精査すると、ある重要な事実が浮かび上がる。掲載されている作品は1906年以前にノヴェロ社から出版されたものに限られており、以後に作曲・出版されることになる二つの交響曲や二つの協奏曲が一切含まれていないのである。すなわち、このスコアは《神の国》初版、あるいはそれに極めて近い段階の版である可能性がきわめて高い。
この点を踏まえるならば、現在では省略されている副題 Jerusalem がこのスコアに記されている理由は明確になる。すなわち、初版当時にはこの副題が正式に付されており、その後の改訂や再版の過程で意図的に削除された、という推測が自然なのである。
ここで注目すべきは、エルガーにとって「Jerusalem」という語が持つ象徴的意味である。これは単なる地名ではなく、霊的共同体としての理想郷、すなわち地上に実現されるべき神の国という観念を強く喚起する語である。《神の国》が《使徒たち》と《最後の審判》に挟まれた三部作構想の中核を成す作品であることを考えれば、この副題は内容的にも思想的にも、きわめて的確な指標であったはずだ。
にもかかわらず、後年この副題が取り払われた背景には、作品をより普遍的・抽象的な宗教オラトリオとして位置づけ直そうとする編集的配慮、あるいはエルガー自身の美学的逡巡があった可能性も考えられる。エルガーはしばしば、自作の意味付けを後年になって後退させる作曲家であり、標題や説明的要素を削ぐことで音楽そのものの自立性を高めようとした例は少なくない。
この初版スコアが示しているのは、現在我々が「決定版」と思い込んでいる姿が、必ずしも作曲当初の構想を忠実に反映しているとは限らない、という事実である。副題 Jerusalem の存在は、《神の国》が当初、より明確な神学的・象徴的ヴィジョンのもとに構想されていたことを静かに、しかし雄弁に物語っている。
エルガー作品において「原典」とは何か――この問いは、交響曲や協奏曲だけでなく、オラトリオにおいてもなお、我々の前に重く横たわっているのである。

「最後の審判」の予告編
エルガーのオラトリオ《神の国(The Kingdom)》は、もともと構想されていた三部作の中間部に位置づけられる作品である。すなわち、《使徒たち》を第1部、そして最終的に壮大な黙示録的世界を描く《最後の審判》を第3部として締めくくる――その間に置かれる、いわば緩徐楽章的性格を担う存在であった。
結果として、エルガーは《最後の審判》に着手することなく筆を置くことになる。その理由については、体力・精神状態・時代の変化など、さまざまな説が語られてきたが、ここではそれを論じない。ただ一点、確実に言えることがある。それは、《神の国》を作曲していた時点において、エルガーが《最後の審判》を書く意志をはっきりと持っていたという事実である。
そのことを強く示唆しているのが、《神の国》第3部「ソロモンの回廊」における練習番号110番の合唱である。この場面では、群衆がイエスではなく殺人犯バラバを釈放させてしまったことを激しく悔恨する。音楽はここで急激に緊張を高め、エルガーとしては異例とも言える半音階的進行が連続する。聴きようによっては、ほとんどクロマティックな響きとすら感じられるだろう。
エルガーが明確に半音階的語法へと傾斜するのは、一般に1918年以降、室内楽作品群に取り組んだ晩年期とされている。マーラーの後、ストラヴィンスキー出現直前という時代状況を考えれば、それは理解しやすい。しかし、1906年という時点で、これほど不安に満ちた、調性感の揺らぐ音楽を書くことは、彼にとって極めて異例である。
ここで興味深いのが、現存する《最後の審判》の断片的スケッチである。私自身、かつてそれらのメモをもとにMIDI化し、プライベートCDとして音源化した経験があるが、そこに現れる音楽的特徴は驚くほど共通している。すなわち、半音階的進行を基調とした、不穏で緊張感の高い曲想であり、《神の国》110番の合唱と非常によく似ているのだ。
この一致は偶然とは考えにくい。むしろ、110番の合唱は、エルガー自身が意識的に挿入した**〈最後の審判〉の予告編**、あるいは精神的試作であった可能性すら感じさせる。緩徐楽章の内部に、終楽章の影を忍び込ませる――交響曲的思考に通じるこの構造は、いかにもエルガーらしい。
さらに、《Elgar in Manuscript》には、もう一つ注目すべき記述がある。エルガーは《使徒たち》で使用した**ショーファー(ショファール)**を、《最後の審判》でも再び用いる構想を抱いていたらしい。考えてみれば、《最後の審判》の主題は黙示録であり、そこにはラッパの描写が数多く登場する。旧約聖書における「ラッパ」とは、多くの場合ショーファーを指す。象徴性の点でも、これ以上ふさわしい楽器はない。
すなわち、《神の国》の内部には、音楽的にも思想的にも、すでに《最後の審判》の萌芽が埋め込まれているのである。エルガーは結局、その終章を書くことはなかった。しかし、110番におけるあの不穏な半音階のうねりは、彼の脳裏に確かに存在していた「最後」を、今なお雄弁に物語っている。
《神の国》は単なる中間楽章ではない。未完に終わった三部作の中で、最も未来を指し示している作品なのである。


「神の国」唯一国内盤
エルガーのオラトリオ《神の国(The Kingdom)》は、彼の大作群の中でも、とりわけ内向的で、沈潜した精神性を宿す作品である。壮麗さや劇性という点では《ゲロンティアスの夢》や《使徒たち》に一歩譲るように見えるかもしれない。しかし、この作品に耳を澄ますと、そこにはエルガーの信仰そのものの在り方が、最も深い次元で刻み込まれていることに気づかされる。
《神の国》は、エルガーが構想した三部作オラトリオの中核をなす存在である。外的ドラマではなく、信仰共同体の内面、揺らぎ、疑念、そして希望――そうしたものが音楽として結晶化した作品であり、言い換えればこれは、エルガー自身の信仰が最も赤裸々に露呈した究極の一作なのではないだろうか。
そんな《神の国》の録音の中でも、ひときわ異色なのが、レナード・スラットキン指揮によるRCA盤である。しかもこの録音、あっという間に廃盤となったにもかかわらず、かつて国内盤として正式にリリースされていたという事実は、今となってはほとんど知られていない。
そもそもRCAによるエルガー作品というだけでも珍しい。さらに言えば、スラットキン指揮という点が極めて異例である。スラットキンは確かにエルガーをレパートリーにはしているが、彼が正面から取り上げたオラトリオが、《ゲロンティアスの夢》でも《使徒たち》でもなく、なぜか《神の国》ただ一作のみというのは、常識的な選曲からは外れている。
この選択は、エルガーを「英国的壮麗さ」の作曲家としてではなく、内省と信仰の作曲家として捉えた結果なのかもしれない。スラットキンの音楽作りは、過度な宗教的高揚を煽ることなく、作品の構造と流れを冷静に見据えながら、淡々と、しかし誠実に進められていく。その姿勢は、《神の国》という作品の本質と、意外なほどよく一致している。
さらに特筆すべきは、この国内盤に付されていたライナーノーツと対訳である。執筆を担当しているのは、あの三浦淳史。日本におけるエルガー受容を語るうえで欠かすことのできない存在が、この極めてマイナーなディスクに関わっていたという事実には、ある種の感慨を覚えずにはいられない。
正直に言って、このディスクを所有している人そのものが、すでに稀有な存在だろう。国内盤が短期間で姿を消したことを考えれば、「よくこんなものを入手できたものだ」と感じるのも無理はない。しかし、その稀少性以上に、このディスクは象徴的である。華やかさとは無縁な《神の国》という作品が、同じく目立たぬ形で、ひっそりと日本盤として存在していたという事実自体が、まるでこの作品の運命をなぞっているかのようだ。
《神の国》は、エルガーの信仰が最も深く沈殿した場所である。そして、その核心に静かに光を当てたスラットキン盤は、忘れ去られてよい録音ではない。むしろそれは、エルガーという作曲家を**「信仰する人間」**として理解しようとする者にとって、避けて通れない一枚なのである。





