“舐めた演奏”とは何か――エルガー演奏におけるリスペクトの条件
私はエルガーの演奏に対して、私はしばしば辛口の評価を下すことがある。
しかしそれは、単なる好みや気分によるものではない。根底にあるのは、演奏から作曲家へのリスペクトが感じられるか否かという一点に尽きる。
では、どのような演奏が「舐めた演奏」と感じられるのか。
まず第一に挙げられるのは、表現が著しく標準から逸脱している場合である。極端なテンポ設定、過剰あるいは不自然なダイナミクス――いわゆる「個性的」と称される類の演奏である。もちろん、それ自体が問題なのではない。問題は、その解釈に必然性と説得力が伴っているかどうかである。明確な根拠に裏打ちされ、音楽として聴き手を納得させるだけの力があるならば、どれほど大胆であっても成立する。しかし、それが単なる思いつきや自己顕示に過ぎないと感じられる場合、それは作曲家の作品に対する敬意を欠いた態度と受け取らざるを得ない。
次に、完成度の問題である。明らかな練習不足、統制の取れていないアンサンブル、細部の粗さ――こうした状態で作品を公に提示すること自体が論外である。とりわけエルガーのように緻密な構造と繊細なニュアンスを要求する音楽においては、その粗雑さは即座に作品の本質を損なう。
実際の例。交響曲第1番第4楽章練習番号130番。ベートーヴェンの第九でいえば、正に歓喜の主題が出てくるような最重要箇所。ここを、ある奏者が1小節早く飛び出してしまった。おかげで一番美しいはずの音形が完全に崩れてしまった・・・。
さらに深刻なのは、演奏者の態度そのものである。実際に経験した例を挙げれば、同一のコンサートにおいて、エルガー作品ではほとんどスコアに目を落としたまま最低限の指示しか出さない一方、他のレパートリーでは暗譜で熱量高く指揮する、という極端な落差を示すケースがあった。このような振る舞いは、演奏に対する投入エネルギーの差を露骨に示すものであり、聴衆に対しても、そして何より作品に対しても誠実とは言い難い。
また、他の作品では濃密な表現を施しながら、エルガーにおいては異様な速さで淡々と処理し、まるで「早く終わらせたい」と言わんばかりの演奏に出会うこともある。それは音符を機械的に「鳴らしている」に過ぎず、「語っている」ものではない。
極めつけは、演奏する作品そのものを軽んじる言動である。舞台裏であれ私的な場であれ、自ら取り上げる作品を貶めるような発言をする演奏家がいるとすれば、それはプロフェッショナルとして致命的である。どこで誰が聞いているか分からない以上、それは必ずどこかで伝わる。そして、そのような姿勢から生まれる演奏に、深い感動が宿ることは決してない。
実際の例。①当日交響曲第1番を演奏するのに、事前のプレトークで「実は、この曲はベートーヴェンやブラームスの曲より劣る」と発言してしまった。②「こんな曲でも演奏さえよければお客は感動する」と、楽屋で発言。③エルガーの代名詞ともなってノビルメンテ(高貴に)に関して「本当に高貴な人はノビルメンテなんて言葉は使わない」と笑いを取るためにディスる。④前奏曲とフーガのオーケストレーションの19世紀的厚化粧に関して笑いものにする。
これらは全て実際にあった事柄である。
結局のところ、問題は技巧でも解釈でもない。
その音楽に対して、どれだけ真摯に向き合っているか――すなわち「愛」と「敬意」の問題なのである。




