愛の音楽家エドワード・エルガー

エルガーとブルックナー――「英国のブルックナー」という視座

エドワード・エルガーはしばしば「英国のブラームス」あるいは「英国のマーラー」と形容されてきた。確かに構築性、後期ロマン派的語法、オーケストレーションの充実といった点では、それらの比較も一理ある。しかし精神的位相、作品生成の動機、そして音楽が向かう最終的な方向性を考えるならば、むしろ「英国のブルックナー」という比喩の方が、本質に迫るように思われる。

 

比較対象となるのは言うまでもなくアントン・ブルックナーである。

 

カトリック的世界観と「神に向かう音楽」

 

両者の最も根源的な共通点は、作曲技法以前に、宗教的世界観のあり方にある。信仰のあり方や神学的深度に差異はあれど、両者とも生涯にわたってローマ・カトリック教徒であり、その信仰が音楽の倫理的基盤を形成している。

 

ブルックナーは交響曲第9番を「親愛なる神へ」献呈したことで知られる。一方エルガーもまた、《ゲロンティアスの夢》《使徒たち》《神の国》という宗教的三部作の献呈相手が「神」である。エルガーはこの三部作を通じて、人間の救済、信仰、死後の世界を真正面から扱った。これらは単なる宗教的題材作品ではなく、「音楽による信仰告白」と呼ぶべき性格を帯びている。

 

ここで重要なのは、両者ともに神を描写するために音楽を書いたのではなく、神に向かって音楽を書いたという点である。音楽は表象ではなく祈りであり、構築物である以前に行為なのだ。この姿勢こそが、マーラーやブラームスとの決定的な違いであり、ブルックナーとの親和性を強く感じさせる所以である。

 

オルガニストとしての身体感覚

 

エルガーとブルックナーは、ともに優れたオルガニストであった。ブルックナーは生涯を通じて教会オルガニストとして活動し、その即興的和声感覚、巨大な音響構造、持続と累積によるクライマックス形成は、明らかにオルガン音楽の思考様式に根ざしている。

 

エルガーもまた、若き日にカトリック教会でオルガンを弾き、典礼音楽に日常的に接していた。この経験は、彼の作品に見られる和声の呼吸感、長大なフレーズ、静止と高揚の交替といった要素に直結している。

 

とりわけ《神の国》や《使徒たち》における合唱と管弦楽の扱いは、交響曲というよりも「巨大なオルガン音楽」を思わせる瞬間が少なくない。この感覚は、ブルックナーの交響曲における金管コラールや長大な静的展開と明確に共振している。

 

自然風景と霊的空間

 

もう一つの重要な共通点は、故郷の風景が直接的に音楽へと変換されていることである。

 

ブルックナーにとってのLinzとドナウ河畔の広大な自然は、彼の交響曲における空間的感覚、音楽の「縦方向への伸び」を生み出した。一方、エルガーにとってのWorcester、そしてMalvern Hillsの丘陵地帯は、彼の音楽に独特の抒情と遠望感を与えている。

 

両者の自然描写は写実的ではない。風景は象徴であり、精神の投影である。自然は神の創造物であり、その中に身を置くことで人は神に近づく――この感覚が、音楽の時間構造そのものを規定している。

 

エルガーの緩徐楽章における「止まった時間」、ブルックナーのアダージョにおける「永遠への憧憬」は、まさにこの霊的空間感覚の表出にほかならない。

 

人間的弱さと謙虚さ

 

しばしば忘れられがちだが、エルガーとブルックナーは、ともに自己不信と謙虚さを抱えた作曲家でもあった。批評に傷つき、評価に揺れ、神の前では小さな存在であろうとした姿勢は驚くほど似通っている。

 

この内向性があるからこそ、彼らの音楽は英雄的でありながら、どこか祈るようで、最終的には自己主張を超えた地点へと向かう。交響曲第9番の終結部、あるいは《神の国》の静かな光の中で、人は「勝利」ではなく「委ねる」という感情に導かれる。

 

未完成という運命

 

【ブルックナーの場合】

 

アントン・ブルックナーの《交響曲第9番》は、終楽章を完成させることなく世を去った。作品は「親愛なる神へ」献呈され、三楽章版でも精神的完結性を持つとされるが、草稿は相当量残されている。

 

そのため20世紀後半以降、

 

 SPCM版(サマーレ、フィリップス、コーラス、マッツーカ補筆

 

 シャラー版(ゲルト・シャラー補筆)

 

 その他の補筆: カラーガン版、ジョセフソン版

 

など、複数の補完バージョンが存在する。
未完でありながら、補完によって“未来へ開かれた作品”となったのである。

 

 

【エルガーの場合】

 

エルガーにもまた、未完作品が存在する。

 

1.交響曲第3番

 

エルガーは晩年に第3交響曲の構想を進めていたが完成には至らなかった。
その草稿を基に、アンソニー・ペインが補完を行い、1998年に初演された。この版は単なる再構成ではなく、エルガー晩年の語法を深く研究した上での創造的復元として高く評価されている。

 

 

2.ピアノ協奏曲

 

未完に終わったピアノ協奏曲も、ロバート・ウォーカーによって補完稿が作られている。構想段階にとどまる部分も多いが、エルガーが晩年に新たな協奏曲様式を模索していた痕跡を示す重要資料である。

 

 

3.歌劇《スペインの貴婦人》

 

未完のオペラ《スペインの貴婦人》は、パーシー・ヤングによる補筆版が試みられている。この作品もまた、エルガー晩年の新たな方向性を示唆する。

 

 

未完という精神構造

 

ここで重要なのは、両者ともに

 

 晩年に到達した巨大構想

 

 それが「終末」や「総決算」に関わる作品であったこと

 

 そして完成を見なかったこと

 

である。

 

ブルックナーは神へ献呈する交響曲第9番を完成させる前に亡くなった。
エルガーもまた、交響曲第3番という新たな総括に向かう途上で筆を置いた。

 

両者の未完は、単なる偶然ではなく、ある種の精神的限界点を象徴しているように見える。
到達点があまりに高く、あまりに内面的であったため、音楽は完成よりも「途上」の形で残された。

 

補完という現代的対話

 

さらに興味深いのは、両者ともに後世の作曲家・研究者による補完が行われていることである。

 

未完作品は

 

 死によって閉ざされたもの

 

ではなく、

 

 後世との対話を可能にする開かれた構造

 

へと変化した。

 

この点でも、エルガーとブルックナーは奇妙なまでに似ている。

 

「未完」という共通の象徴

 

エルガーとブルックナーは、

 

 カトリック信仰

 

 オルガニストとしての出発

 

 神への献呈

 

 故郷の自然の音響化

 

に加え、

 

 巨大作品を未完のまま遺した作曲家

 

という運命的共通項を持つ。

 

未完とは敗北ではない。
それは「完成を超えた問い」を後世に委ねる行為でもある。

 

その意味において、エルガーは単に英国的後期ロマン派作曲家ではなく、
精神構造においてブルックナーと深く響き合う存在――
まさに「英国のブルックナー」と呼びうる作曲家なのである。

 

 

 

 

愛の音楽家エドワード・エルガー電子書籍はこちらからどうぞ

エルガーとブルックナー――「英国のブルックナー」という視座

エドワード・エルガー 希望と栄光の国


エルガーとブルックナー――「英国のブルックナー」という視座


愛の音楽家 エドワード・エルガー





ぷりんと楽譜の定額プラン「アプリで楽譜見放題」




本サイトから転載する際は必ず出展元として本サイト名とリンクを明記してください。それ以外の無断転載禁止
トップへ戻る