軽やかな哀歌――エルガー《チェロ協奏曲》は“重さ”を失ったのか
🎻《エルガー:チェロ協奏曲 ホ短調 Op.85》(2025年 Kronberg Festival 演奏)
📍 演奏:ウォルフガング・エマヌエル・シュミット(チェロ)
📍 オーケストラ:hr-シンフォニーオーケストラ(フランクフルト放送響)
📍 指揮:ミヒャエル・ザンデルリング
📍 会場:Casals Forum(クロムベルク・フェスティバル 2025 終演コンサート)
📍 日付:2025年10月5日
2025年10月、クローナベルク・フェスティバル終演コンサートにおけるウォルフガング・エマヌエル・シュミット(チェロ)と ミヒャエル・ザンデルリング(指揮)によるエルガー《チェロ協奏曲 ホ短調》は、現代におけるこの作品の立ち位置をあらためて考えさせる演奏であった。
まず印象的なのは、その驚くほど軽やかな重心である。
冒頭のレチタティーヴォ風の独奏は、沈痛な嘆きとして誇張されることなく、むしろ抑制された独白として提示される。音は深いが粘らず、情念はあるが溜め込まれない。シュミットのチェロは、悲嘆を「背負う」のではなく、「語る」ことを選んでいる。
ザンデルリンクの伴奏もまた、この方向性を明確に支えている。
オーケストラは濃密な陰影でチェロを包み込むのではなく、透明な空間を用意し、独奏が自由に呼吸できる場を与える。テンポは総じて前向きで、特に第2楽章や終楽章では、従来この曲に付きまとってきた「停滞感」や「重苦しさ」が意識的に排除されているように感じられる。
この演奏を聴きながら、多くの聴き手が思い浮かべるのは、やはりジャクリーヌ・デュ・プレの影であろう。
20世紀後半、この協奏曲は彼女の名演によって「私的悲劇の極点」として刻印された。そこでは、音楽は常に崩壊寸前の緊張を孕み、チェロは歌うというより、引き裂かれる存在であった。
しかし シュミット/ザンデルリンク の解釈は、その系譜には立っていない。
ここにあるのは、戦争の廃墟に立つ若者の慟哭ではなく、過去を振り返りつつも、どこか距離を保った老年の回想である。悲しみは確かに存在するが、それはもはや激情として噴出しない。むしろ、記憶の層を静かに撫でるように音楽が進んでいく。
この変化を「エルガーの本質からの逸脱」と捉えることも可能だろう。
だが同時に、これは時代が要請した自然な変容とも言える。
第一次世界大戦直後の切実さを、21世紀の演奏家がそのまま再演することはできない。代わりに彼らは、エルガー晩年の内省性、簡素さ、そして透明な孤独を前面に押し出す。
とりわけ印象的なのは、終楽章の扱いである。
激情に向かって盛り上げるのではなく、あくまで節度を保ったまま進み、最後は抗うことなく静かに音楽を手放す。その姿勢は、ブリンクウェルズ時代のエルガー――「白鳥の歌」を書いた作曲家像とよく重なる。
では、デュ・プレ的な「ヘビーなエルガー」は消え去っていくのだろうか。
おそらく答えは否である。
しかし同時に、それが唯一の正解であった時代は確実に終わりつつある。
この2025年クローナベルクでの演奏は、エルガー《チェロ協奏曲》が
「痛みを叫ぶ音楽」から
「痛みを知っている音楽」へと
静かに姿を変えつつあることを、はっきりと示していた。
それは軽くなったのではない。
重さを誇示する必要がなくなったのである。


