《ゲロンティアスの夢(The Dream of Gerontius, op. 38)》

理性と激情の交差点 ――ブリテン指揮《ゲロンティアスの夢》という異端的名演

エドワード・エルガー:オラトリオ《ゲロンティアスの夢》

 

ベンジャミン・ブリテン(指揮)
ピーター・ピアーズ(テノール/ゲロンティアス)
イボンヌ・ミントン(メゾ・ソプラノ/天使)
ジョン・シャーリー=カーク(バリトン/司祭・天使)
ロンドン交響楽団
ロンドン交響楽団合唱団
ケンブリッジ・キングズ・カレッジ合唱団
録音:1971年(Decca)

 

※日本国内盤としては唯一の公式リリース

 

ベンジャミン・ブリテンが指揮した《ゲロンティアスの夢》は、エルガー演奏史の中でも明確に「異端」と呼ぶべき存在である。

 

それは解釈が独創的だから、という単純な理由ではない。
むしろ、エルガー的な「情念の粘度」を意識的に削ぎ落とし、音楽を劇として、時間の芸術として再構築している点において、この演奏は決定的に特異なのである。

 

■ テンポが生む「動」のエルガー

 

まず耳を奪われるのは、全体にわたるかなり速めのテンポ設定だ。
特に序曲冒頭、狂気すら孕んだティンパニの打撃は、聴き手に一切の猶予を与えない。

 

ここで提示されるのは、瞑想的・宗教的エルガーではなく、**神学的ドラマとしての《ゲロンティアス》**である。

 

ブリテンはこの作品を「祈り」よりも「行為」として扱う。
その結果、音楽は停滞せず、常に前へ、前へと推進される。
この推進力は、第1部終盤のゲロンティアスの死の場面で一種の凄絶さを帯びる。

 

■ ピアーズという「非エルガー的」ゲロンティアス

 

ピーター・ピアーズのゲロンティアスは、デュ・プレ的、あるいはリード的な「英国的湿潤さ」とは正反対に位置する。

 

彼の歌は細く、鋭く、時に不安定ですらある。
しかしそれは、死を前にした魂の脆さ、知的恐怖、存在論的な揺らぎをむしろ赤裸々に浮かび上がらせる。

 

ここでは英雄的ゲロンティアスではなく、疑い、恐れ、考え続ける人間としてのゲロンティアスが描かれる。
ブリテンがこの独唱者を選んだ意味は、極めて明確だ。

 

■ 合唱とオルガン――理性の果てに現れる荘厳

 

特筆すべきは、第1部終結部、そして第2部「精霊の合唱」におけるオルガンの効果である。

 

ブリテンはここで、抑制されてきた音響を解放する。
それまで「動」に支配されていた音楽が、一瞬、垂直方向へと開かれるのだ。

 

このオルガンは感情を煽るためのものではない。
構築された理性の果てに、突然立ち現れる荘厳である。

 

ケンブリッジ・キングズ・カレッジ合唱団の透明な響きも相まって、この瞬間、《ゲロンティアスの夢》は神秘というより「冷たい光」を放つ。

 

■ 国内盤唯一という意味

 

この録音が、日本で正式にリリースされた唯一の《ゲロンティアスの夢》であるという事実は、決して偶然ではない。

 

ブリテン盤は、「エルガーらしさ」を求めるリスナーには必ずしも居心地の良い演奏ではない。

 

しかし同時に、エルガーという作曲家を、20世紀音楽の文脈の中で再定位するための極めて重要な視点を提供している。

 

国内盤が短命に終わったのも理解できる。
だが、今改めて聴き直すと、この演奏はむしろ現代的で、知的で、痛切である。

 

 

 

ブリテンの《ゲロンティアスの夢》は、信仰の音楽ではない。
慰撫の音楽でもない。

 

それは、
死と裁きと自己意識を、冷静な速度で貫通していく音楽的思考の記録である。

 

だからこそ、この録音は「唯一の国内盤」という枠を超え、エルガー受容史における重要な異議申し立てとして今なお価値を失っていない。

 

静的なエルガーに飽きた耳には、この演奏ほど刺激的な《ゲロンティアス》は、そう多くないだろう。

 


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