遂につかんだ名声

静寂と叙情の海へ――山田和樹/モンテカルロ・フィル《海の絵》2019

2019年9月22日、モンテカルロ・フィルハーモニー管弦楽団を指揮した山田和樹によるエルガー《海の絵》作品37は、端正かつ深い表現意志をもって楽曲の海洋的深層を描き出した演奏である。

 

《海の絵》は、エルガーが一時的な芸術的転機を迎えていた1899年に作曲された、五つの海を巡る歌劇的組曲である。テクストは海や航海を象徴的に描写する詩から採られ、声楽と管弦楽の対話によって、海そのものの情緒的広がりと内省的深みが描かれる。

 

山田とモンテカルロ・フィルの《海の絵》は、まず第1曲「Sea Slumber Song」からして、その穏やかな波を単なる静謐としてではなく、深い呼吸運動として描写していた。弦楽の呼吸が海面の揺らぎとして持続し、コントラルト独奏マリー=ニコル・ルミューの声が、あたかも遠くの潮騒のように現れる。ここに安易なロマンティシズムはなく、音の重心と継続性を見据えた確かな構築感があった。

 

第2曲「On the Beach at Sanset」では、夕暮れの海辺の静寂と、そこに差す最後の光が丁寧に描かれる。弦の色彩が淡く揺れ、木管が朧気な夕焼けの空気感を呼び込む。山田は「間」と「静止」を恐れず、そこでこそ海と空の関係性を際立たせる狙いを持っているようであった。ここに至って、《海の絵》が単なる“海の叙情詩”ではなく、音響空間としての海そのものの時間を描く作品であるとの認識が明確になる。

 

3曲目の「Sabbath Morning at Sea」では、ルミューの声が独自の物語性を担う。特に「Sabbath Morning at Sea」での声の運びは、単に旋律を歌うだけでなく、管弦楽と精神的な呼応を成すものとして扱われていた。ルミューの声はダイナミックな起伏を持ちながらも、無駄な誇張を避け、詩の語りと音の統合を重んじる態度を徹底しており、その潔さが作品の精神性を一層際立たせていた。

 

4曲目「The Swimmer」では、山田の指揮が合唱的な広がりとオーケストラの統一感を同時に掌握し、劇的だが過剰さを避ける表現で締めくくる。高揚のクレッシェンドは巧みに計算され、波が満ちるように次第に膨らんでいくが、最終的に深い静けさへと収斂する。この収束において、《海の絵》の内的輪郭がはっきりと浮かび上がる演奏であった。

 

総じてこの演奏は、山田和樹がこれまで交響曲第1番・第2番・《ゲロンティアスの夢》といった大作で示してきた構築的な解釈と微細な色彩感覚を、《海の絵》という声楽と管弦楽の複合的空間においても遺憾なく発揮したものである。声楽が単独のセンセーションに陥ることなく、管弦楽と深い精神的な呼吸を共有するアプローチは、作品の核心に迫るものであった。

 

この演奏によって、《海の絵》は単なる美しい歌景ではなく、海そのものの時間感覚と深層的な静謐を含んだ、大きな叙情詩として再提示されたといえる。山田とルミュー、そしてモンテカルロ・フィルが織り成したこの《海の絵》は、20世紀前半の英語声楽作品を今日の演奏史の中に位置づける強力な一例となった。

 

 

 

◎ 山田和樹の指揮観

 

山田は、エルガーの音楽における叙情と構造の二重性を極めて明確に提示する指揮者である。
彼は単に“美しい音色”を追求するのではなく、

 

和声進行の折り重なり

 

モティーフの反復と解決の仕方

 

声楽とオーケストラの呼吸の連続性
を重視する。
そのため、《海の絵》のような長大な声楽作品においても、個々のフレーズが全体のプロセスに組み込まれているという聴覚的な実感を与える。

 

◎ ルミューの表現の特質

 

マリー=ニコル・ルミューは、声域が広く、低音から中音の豊かな色彩を自在に使い分けることのできるコントラルトである。
彼女のアプローチは、決して叙情に溺れず、詩の意味と音響空間を同時に扱うため、この作品の持つ“叙情と哲学の二重性”を強く顕在化させる。

 

◎ オーケストラとの融合

 

モンテカルロ・フィルは、伝統ある欧州オーケストラの精練されたアンサンブルを持つ。
その均整の取れた音形が、しばしば物語性や強い情緒的効果を優先しがちな声楽作品に、均衡感と深い呼吸を付与した。

 

山田和樹によるエルガー解釈の歴史的文脈付け

――「英国性」から「普遍的構築」へ、その橋渡しとしての位置――

 

1. エルガー演奏史における二つの大きな潮流

 

エルガーの演奏史は、大きく分けて二つの潮流の間で揺れ動いてきた。

 

第一は、英国的伝統解釈である。
ボールト、バルビローリ、ハンドリーらに代表されるこの流れは、エルガーを「英国の精神的象徴」として捉え、

 

 高貴さ

 

 ノーブルなテンポ

 

 歌謡的なフレージング

 

 感情の厚塗り

 

を重視する解釈を育ててきた。

 

第二は、大陸的・構築的解釈である。
トスカニーニ、バレンボイム、スラットキンらの演奏に連なる系譜で、

 

 推進力

 

 構造の明晰さ

 

 和声と動機の論理

 

を前面に出し、エルガーを「20世紀初頭ヨーロッパ交響楽の正統な作曲家」として位置づける流れである。

 

20世紀後半以降のエルガー解釈は、この二極のあいだで常に緊張関係を保ってきた。

 

 

2. 日本におけるエルガー受容の特異性

 

日本におけるエルガー受容は、欧米とは異なる文脈を持つ。

 

日本ではエルガーは、

 

「威風堂々」

 

「愛の挨拶」

 

といった作品を通じて、抒情的・情緒的作曲家として親しまれる一方、
交響曲や《ゲロンティアスの夢》のような大作は、長らく「重く、扱いづらい作品」として距離を置かれてきた。

 

この状況の中で重要な役割を果たしたのが、
尾高忠明、大友直人といった日本人指揮者たちである。

 

彼らは英国的伝統に深く学びながら、
エルガーを日本のオーケストラ文化に根付かせる努力を続けてきた。
しかしそのアプローチは、基本的に英国演奏伝統の内側に立脚したものであった。

 

 

3. 山田和樹の立ち位置――「第三の視点」

 

山田和樹のエルガー解釈は、この二項対立を単純に踏襲しない。

 

彼の解釈は、

 

 英国的ノーブルさを否定しない

 

 しかし感傷に寄りかからない

 

 大陸的構築性を重視するが、冷たくはならない

 

という、きわめてバランスの取れた第三の視点に立っている。

 

これは偶然ではない。
山田は、日本人指揮者として英国作品を内側から継承する立場にありながら、
同時にフランスを中心とするヨーロッパの現場で鍛えられた指揮者である。

 

その結果、彼のエルガーには、

 

 フレーズは歌うが、過度に揺らさない

 

 クライマックスは築くが、誇張しない

 

 情緒はあるが、自己陶酔に陥らない

 

という特徴が明確に表れる。

 

 

4. 山田和樹とエルガー作品群――一貫した解釈姿勢

 

山田によるエルガー解釈の重要性は、特定の一曲に留まらない。

 

交響曲第1番・第2番

 

ここでは、

 

大きなテンポ操作よりも

 

楽章間の有機的連関

 

動機の持続的推進
が重視されている。

 

特に第2交響曲においては、感傷的になりやすい終楽章を、
構造的必然としての沈静へと導く姿勢が際立つ。

 

《ゲロンティアスの夢》

 

宗教的情念に流れやすいこの作品において、山田は、

 

声楽と管弦楽の均衡

 

劇的高揚の段階性

 

精神的プロセスとしての構築
を明確に示す。

 

これは、ボールト的敬虔さとも、バルビローリ的情熱とも異なる、
現代的なエルガー像である。

 

《海の絵》

 

《海の絵》において顕著なのは、
エルガーを「叙情詩人」としてではなく、
時間と空間を音で設計する作曲家として捉える視点である。

 

この点で、山田の解釈はトスカニーニ的系譜に近いが、
そこに柔らかな呼吸と色彩感が加えられている点で独自である。

 

 

5. 歴史的意義――「翻訳者」としての役割

 

山田和樹のエルガー解釈を歴史的に位置づけるならば、
彼はエルガーの音楽を21世紀へ翻訳する指揮者である。

 

英国的伝統を尊重しつつ

 

大陸的構築性を導入し

 

日本的な繊細な聴覚文化とも共鳴させる

 

この三重の翻訳作業を、極めて自然に行っている。

 

その結果、山田のエルガーは、

 

英国の聴衆にとっては「過度にローカルでないエルガー」

 

大陸の聴衆にとっては「理解可能な交響作曲家エルガー」

 

日本の聴衆にとっては「感情と論理が両立するエルガー」

 

として立ち現れる。

 

 

6. 山田和樹とエルガーの「相性」の正体

 

「山田という指揮者とエルガーという作曲家の相性の良さ」

 

その正体は、
エルガー自身が生涯抱えていた二重性――
感情と構築、内省と公共性、個と普遍――
を、山田が無理なく引き受けている点にある。

 

山田和樹のエルガーは、
もはや「英国音楽を日本人が振る」という段階を超え、
エルガーを世界音楽史の中に正しく再配置する実践なのである。

 

これは、尾高忠明・大友直人が築いた道の延長線上にありながら、
明確に次の段階へ進んだ姿だと言ってよい。

 

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