《バイエルンの高地から》 Op.27
■ 1. 作品の背景 ― エルガー夫妻が出会った“アルプスの光”
《バイエルンの高地から(From the Bavarian Highlands)》は、エルガーが妻アリスとともに1894年にドイツ南部バイエルン地方を旅行した際の思い出をもとに作曲した、6曲からなる合唱組曲。
正式な副題は
“Six Choral Songs with Orchestra (or Piano)”。
初版では“カントレッツァ(Cavalleria)”という語を使うなど、やや洒落の効いた出版意図もあった。
アリス夫人は旅行中の印象を詩として書き留め、それをテキストとしてエルガーが音楽をつけた。
旅の目的は単なる観光ではなく、当時まだ生活も不安定で精神的にも不調を抱えていたエルガーが、療養と気分転換を求めての“気晴らし”だったと言われる。
そのためこの作品は、一般に広く知られる《エニグマ変奏曲》《ゲロンティアス》《交響曲》のような重厚な面ではなく、
エルガーの“陽の当たる側”、軽やかな抒情、牧歌的な情緒、外国旅行の高揚感
が純粋な形で現れている。
エルガー自身が「最も軽快で、最も楽しく書いた音楽の一つ」と語ったという記録もある。
■ 2. 曲の構成(6曲)と個別解説
全6曲はそれぞれ、エルガー夫妻が滞在したバイエルンの村での体験・雰囲気を反映している。
I. The Dance
明るい3拍子の舞踏風楽曲。
アリス夫人が好んだ舞踏会・賑やかな夜の場面を歌う。
冒頭から軽快なリズムが流れ、エルガー特有の晴れやかな旋律線が生き生きと踊る。
弦・木管の小気味よい刻みが、山村の素朴さと、旅先の解放感を同時に伝える。
ハーモニーは単純ながらも品格があり、のちの《エニグマ変奏曲》の快活な側面を予感させる。
II. False Love
対照的に、やや翳りを帯びた短調の歌。
旅先の恋の寓話を扱った詩で、軽い民謡調と仄かな哀愁が混じる。
合唱に対する弦の寄り添い方が美しく、“バイエルンの山の夕暮れ”の色彩が感じられる。
エルガーのメロディは常に上昇志向で、どこか未練と希望が同時に漂う。
III. Lullaby
穏やかで親密、ほとんど“家族の祈り”のような音楽。
ゆりかご歌のスタイルだが、バイエルンの教会礼拝を思わせる敬虔な雰囲気がある。
合唱の和声は単純ながら繊細で、後年の《Gerontius》の深い宗教感の萌芽を感じさせる。
ピアノ版では特に内声が温かく、家庭的な感触が強い。
V. Aspiration
アルペン風景を描いたもっとも詩的な曲。
弦のトレモロや緩いアルペジオが、山小屋から眺める月夜の空気を描く。
ハーモニーが微妙に漂い、“夜の透明さ”が何ともエルガー的。
内的な祈りを湛えた曲で、アリス夫人の詩も美しく静謐。
V. On the Alm True Love
再び明るく軽快な曲で、狩猟の正確な射手たちを描く。
合唱とオーケストラが交互に短いフレーズを投げ合い、活気と遊び心が満ちている。
リズムの冴えと曲のフォルムは、若いエルガーの職人芸の冴えを示す。
ここには《威風堂々》の“闊達さ”の原型のようなものも感じる。
VI. The Marksmen (Bei Murnau)
フィナーレは荘厳で広やか。
エッタール修道院の印象をもとにしており、宗教的で堂々たる響き。
合唱が力強く上昇する旋律は、まさに“山岳賛歌”。
エルガーの後期の宗教的作品へとつながるスケール感があり、組曲全体を精神的に引き締める。
結尾は明るく、旅の終わりを告げるような満ち足りた高揚感で閉じられる。
■ 3. 音楽的性格の特徴
◎ “英国的抒情”と“ドイツ民謡風”の幸福な融合
旋律はエルガーらしく英国的で典雅だが、リズムや和声の単純明快さはアルプス民謡を思わせる。
この“異国情緒との融合”が、他のエルガー作品にはない輝きを与えている。
◎ あくまで軽快、明朗
《ゲロンティアス》や交響曲にみられる重厚さはほとんど現れない。
エルガー自身が心身を癒された旅行の記憶が、ありのままの明るさで刻まれている。
◎ 合唱作品としては技術的に易しく、親しみやすい
アマチュア合唱団でも歌いやすく、英国では愛好家のレパートリーとして長く親しまれてきた。
エルガーの“サロン風合唱作品”として珍しい成功例である。
■ 4. 作品の位置づけと演奏史
初演は1896年12月、ウースター音楽祭。
評判は上々だったが、後年の大規模作品の影に隠れがちで、今日の演奏頻度はそれほど高くない。
しかしエルガー研究者の間では、
「エルガーの内面的変化を象徴する“光の章”」
「後の大作群の精神的前駆」
として重視されている。
特に第Ⅳ曲と第Ⅵ曲は、後の《Gerontius》や《The Apostles》の質感を予感させ、作風転換期の重要な作品とみなされている。
■ 5. この作品を聴く鍵
エルガーの“最も純粋な幸福感”が刻まれた作品 として聴く
軽いが奥行きがあり、後年の大作との“影と光”の対比を味わう
バイエルンの村・教会・山の風景を思い浮かべながら聴く
アリス夫人との夫婦合作作品としての側面も重要
『3つのバイエルン舞曲』
■ 1. 作品概説 ― 合唱組曲の“器楽版エッセンス”
《3つのバイエルン舞曲》は、エルガーが1896年に作曲した合唱組曲《バイエルンの高地から》Op.27 のうち、特に舞曲性と色彩感に富んだ3曲を抜粋し、純粋な管弦楽組曲として再構成した作品である。
原曲が合唱による“旅のスケッチ集”であるのに対し、この《3つのバイエルン舞曲》では歌詞を取り去り、オーケストラのみでエルガーの若々しい舞曲感覚と異国情緒を前面に出すことが狙われている。
採用された3曲は以下の通り。
第1曲:原曲第1曲「The Dance(Sonnenbichl)」
第2曲:原曲第3曲「Lullaby(Garmisch)」
第3曲:原曲第5曲「The Marksmen(Wamberg)」
いずれも軽やかで親しみやすく、エルガーの若年期の明朗な抒情・温かい色彩・素朴なユーモアを味わえる小品である。
■ 2. 作曲・編曲の背景
エルガー夫妻はバイエルン地方を旅した経験から《バイエルンの高地から》を作ったが、合唱曲としての人気が高まるにつれ、エルガーはこの“アルプスの明るい響き”を純粋な管弦楽でも楽しめる形にしたいと考えた。
1897年頃にはすでにオーケストラ版が演奏されており、エルガーのオーケストレーションの習熟度が一段と増し始めた時期の産物でもある。
弦楽の明るい刻み、木管の軽やかな連続フレーズ、そして金管の輝かしいアクセントなど、いずれも後の《エニグマ変奏曲》や《威風堂々》につながるエルガーらしい色彩感が萌芽している。
■ 3. 各曲解説
◎ **I. The Dance(Sonnenbichl)
――明朗で開放的な“山の踊り”**
3拍子の快活な舞曲で、組曲の幕開けにふさわしい弾むリズムを持つ。
原曲の合唱による語りかけのニュアンスは消え、代わって軽やかでプロフェッショナルなオーケストラのアンサンブルが前面に出る。
弦楽器の躍動するオフビートの刻み
木管の愛らしい装飾
テーマが次々と各パートに受け渡される明るい対話形式
全体に初期エルガーの純粋な生命力・陽光・旅の幸福感が漂う。
後年の壮大な作品に比べると構造は簡潔だが、音楽の明晰さと調性感の開放感は抜群である。
特に中間部の柔らかな歌謡風旋律は、エルガーならではの“英国的優美さ”を帯びながら、どこか南ドイツの暖かい空気を感じさせる。
◎ **II. Lullaby(Garmisch)
――穏やかな夕暮れ、旅先の静けさ**
3曲の中でもっとも抒情的で、穏やかな子守歌風の楽章である。
原曲の合唱では宗教的静けさが目立つが、器楽版ではオーケストラの内声の動きや色彩的配分が強調され、純音楽的な美しさが際立つ。
弦の柔らかいユニゾン
堅実なハーモニー進行
クラリネットやホルンによる温かい呼吸のようなフレーズ
これらがまるでアルプスの山陰に広がる穏やかな夕暮れの空気を描き出す。
エルガー作品としては珍しく、まったく緊張を持たない“安らぎきった音楽”であり、のちの《Gerontius》へ向かう宗教的柔和さの萌芽が感じられる。
◎ **III. The Marksmen(Wamberg)
――剛健でユーモラス、弾むリズムの“射手の踊り”**
フィナーレは一転して活気に満ちたスケルツォ風の舞曲である。
原曲の合唱版では男声のリズミカルな掛け声が印象的だが、オーケストラ版では金管と打楽器のキビキビしたアクセントが威勢よく音楽を牽引する。
鋭いシンコペーション
行進曲風の要素
弦の跳ねるようなパッセージ
木管のちょっとした皮肉めいた装飾
これらが組み合わさり、**“快活な山の射手たちの行進”**を想像させる。
エルガーのユーモアがもっとも素直に表れた楽章であり、最後に向けて明るく、爽快に音楽が突き進んで終わる。
フィナーレの華やかさは小規模ながら《威風堂々》を予兆するような英国的ブラスの輝きさえ帯びている。
■ 4. 作品の位置づけ
《3つのバイエルン舞曲》は、エルガーのオーケストラ作品の中ではやや珍しい立ち位置にある。
大規模で英雄的なエルガー像とは異なる“軽やかな面”を示す
《エニグマ変奏曲》(1899)の直前に当たり、色彩感と語法が成熟しはじめた段階の貴重な証言
合唱の物語性を排し、音楽そのものの魅力を抽出した“純器楽作品”
全体として10分少々の小規模な組曲であるが、エルガーの職人芸と抒情性がコンパクトに凝縮され、魅力的な小品集となっている。
演奏会でもアンコールや前半の小組曲として適し、今日も密かに人気のある作品である。
■ 5. 聴きどころの要点
第1曲:オーケストラの明るい対話と弾むリズム
第2曲:弦と木管の柔らかな色彩、夕暮れの静謐
第3曲:金管主体の快活さ、スケルツォ風の推進力
全体:エルガーの“陽光の側面”、旅の高揚感、温かさ
演奏映像レビュー — ムルシア 2019 “From the Bavarian Highlands”
この演奏映像は、エルガーが1890年代に“旅の思い出”として作った軽やかな合唱組曲を、現代スペインの学生/若手演奏家たちが誠実に再現した試みである。原曲の歌と伴奏あるいは合唱作品としての性格も含めて歴史に根ざした作品に、異国の手が加わることでどのように「現在」の音楽として蘇るか――その興味深さを強く感じさせる映像であった。
✅ 全体の第一印象:誠実さと親しみやすさ、そして若さ
演奏・合唱ともに大きな技巧的過剰や過剰な演出はなく、作品の「田舎の踊り」「牧歌」「村の祭り」「アルプスの風景」といった素朴でさわやかな性格を、むしろ丁寧に尊重している。
指揮と合唱導きが安定しており、テンポの揺らぎは少なく、作品がもつ“軽やかさ”“素直な喜び”“穏やかさ”をしっかり伝えている。
特に「The Dance」「Lullaby」「The Marksmen」のような、原曲の中でも舞曲性あるいは民族的雰囲気の強い曲想がとても自然に表現されており、“異国からの演奏”でありながら違和感は少ない。
このように、過度な技巧やドラマティックな演出を避け、作品の「良さ」の本質を丁寧に汲み取ろうとする姿勢が好印象である。
🎯 各曲の印象と再現の善し悪し
以下は、全 6 曲それぞれについて感じたこと。原曲の背景と音楽的性格を知った上で比較的に評価する。
I. The Dance (Sonnenbichl)
冒頭から軽快で、3拍子の舞踏/民族舞曲風のリズムがよく刻まれていた。原作が “バイエルンの村祭り” の想起であることを考えれば、この “素朴で明るい踊り” の空気はよく伝わっていた。
オーケストラ(あるいは合唱+伴奏)のバランスも過不足なく、木管や低音弦のアクセントが田舎の村の広場の賑わいを想像させる。
個人的には、この曲こそこの演奏の「成功」を最も感じた — 聴衆が初めてこの作品に触れたとしても、すぐに引き込まれる純粋な魅力がある。
II. False Love (Wamberg)
この “不実の恋” の物語性は、合唱作品としての歌詞と情感に強く依存する。映像では言語が英語で歌われ(あるいは字幕か解説があるか不明だが)、歌詞の意味や語感がどこまで伝わったかは、聴衆の言語理解に依存するだろう。
その意味で、言葉のニュアンスや民謡風の “語り” があるこの曲は、「土地と文化を超えての再現」がやや難しいのでは、という印象がある。
音楽自体は丁寧に演奏されていたが、民族性や“バイエルンらしさ”という観点では、若干「ローカルな香り」が薄かったかもしれない。
III. Lullaby (In Hammersbach)
この子守歌風の穏やかで静謐な曲は、演奏が合っていれば非常に魅力的になる。ムルシアの演奏でも、静けさ、柔らかさ、抑制された歌唱がうまく表現され、夜の山里、山小屋、あるいは教会の礼拝堂のような静けさを感じさせた。
合唱の調和、声部のバランス、伴奏の透明感など、アンサンブルの力量が問われる曲だが、この演奏ではそのバランスが比較的保たれていた。
ただし、合唱団の声質、発音の英語アクセント、声量などに多少のムラがあったように思われ、完璧とは言えない面もあった。
IV. Aspiration (Bei Sankt Anton) および V. On the Alm (Hoch Alp)
これら中間曲(二つとも “山の風景” や “牧場・山岳地” を歌う性格の曲)は、バイエルンの高原や教会、牧草地の空気感を描こうとするもので、合唱+伴奏の繊細さ、奥行き、詩の世界の理解が必要である。
ムルシアの演奏では、特にアンサンブルの統一感と響きの深さという点で、少し「地元スペイン風」に寄っていた印象がある。山の冷気やアルプスの透明な空気というより、むしろ室内合唱の延長、という響き。
とはいえ、大きな破綻はなく、穏やかな印象、安定した歌唱と伴奏で “異国の風景への敬意” が表されていた。
VI. The Marksmen (Bei Murnau)
最終曲、村の射撃祭/狩猟祭を描くこの曲では、リズムの軽快さ、金管・打楽器の活用、活気あるコーラスが要求される。ムルシアの演奏は、若々しい勢いと熱気があり、この“お祭りの騒ぎ”をよく表現していた。特に合唱とオーケストラが一体となって駆ける部分では、曲の持つおおらかさと楽しさが伝わった。
ただ、やや厚みやダイナミズムが不足気味で、「地響きのような狩猟祭」の迫力には及ばない。それでも、学習段階の若手による挑戦としては十分なエネルギーと誠実さがあった。
🔍 総合評価:この演奏映像の意義と限界
このムルシアでの演奏は、次のような価値を持っている:
教室/若手アマチュア合唱団・オーケストラによるエルガー再発見の好例。ここまで丁寧で誠実な演奏をすることで、世界のどこにいてもエルガーの音楽が“響く可能性”を示している。
作品の本質――陽気さ、牧歌性、異国への憧れ、旅の思い出――が、過度なドラマや技巧抜きでストレートに伝わる。とくに “The Dance” と “The Marksmen” は成功度が高い。
言語・文化を超えた “国際的な演奏の意味” の確認。歌詞の英語およびバイエルン風の言葉遣いを伴って、スペインの合唱団が演じることで、エルガー作品の国際普遍性が浮き彫りになる。
ただし、限界も明らかである:
“民族性” や “土地の空気感” を伴う中間の歌(False Love, Aspiration, On the Alm など)は、言語・アクセント・声質などの制約から、原曲がもつ“バイエルンの香り”がやや希薄になる。
合唱団の成熟度・声の統一、伴奏の深み・ダイナミズムの点でプロ演奏には及ばず、特に最終曲の迫力にはもうひと工夫が欲しい。
文化・歴史の背景、テキストの意味、アルプスの風景イメージといった「聴覚以外の要素」の伝達は、限られた映像と演奏だけでは難しい。
このムルシア公演は、エルガーの《From the Bavarian Highlands》が持つ、**軽やかで親しみやすく、かつ心が温まる“田舎の祝祭と自然礼讃”**という本質を、遠く離れたスペインの地にもしっかりと届けようとした、真摯で価値ある試みである。
技巧や劇的演出を追わず、作品の素直な魅力に耳を傾けたこの演奏は、むしろ「若手演奏家による“正しく”築かれた新たな伝統の始まり」として評価すべきだと感じる。
エルガー作品のレパートリーが地域や言語を超えて息づく可能性を、力強く示す映像であった。


