略称という名の冒涜 —— クラシック音楽における言葉の倫理
日本語には独特の略語文化がある。特に四文字略称は、日常会話から専門分野に至るまで広く用いられ、クラシック音楽の世界もその例外ではない。
「ドボコン」(ドヴォルザーク:チェロ協奏曲)
「メンチャイ」(メンデルスゾーン+チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲)
「ベト7」(ベートーヴェン:交響曲第7番)
こうした略称は、敷居の高いとされがちなクラシック音楽を親しみやすくする効果を持つ。その意図自体は理解できるし、実際、多くの場面では無害である。しかし、その一線を越え、作曲家や作品への敬意を著しく欠いた表現が横行している現状には、強い違和感と憤りを覚えざるを得ない。
その最たる例が、
「フルトヴェングラー」を「フルベン」、
「ゲロンティアスの夢」を「ゲロ夢」
と略す言い方である。
「フルベン」——20世紀最大の指揮者に対する言語的冒涜
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー。
20世紀最大の指揮者の一人であり、いや、20世紀音楽解釈史そのものを体現した存在と言っても過言ではない人物である。
その名を「フルベン」と縮める神経は、正直理解不能である。
日本語としての語感はあまりに滑稽で、彼の音楽が持つ精神的重厚さ、哲学性、深淵さと、あまりにも乖離している。これは単なる略称ではなく、無自覚な矮小化であり、文化的品位の欠如の表れである。
一部には彼を「ドクター」や「博士」と呼ぶ層もいるが、正直こちらも違和感はある。ただし、少なくともこれは称号に対する敬意が残っている。人を小馬鹿にしたような「フルベン」と比べれば、まだ遥かにマシと言わざるを得ない。
もしフルトヴェングラー自身がこの日本語略称の意味と語感を知ったなら、嘆くか、怒るか、呆れるか。いずれにせよ、肯定的に受け止めることはあり得ないだろう。
「ゲロ夢」——これはもはや文化的冒涜である
しかし、問題はそれ以上に深刻である。
エルガーの《ゲロンティアスの夢》を「ゲロ夢」と呼ぶ行為は、単なる悪趣味を超え、文化的冒涜(blasphemy)にすら値する。
エルガーはこの作品について
「This is the best of me」
——「これは私の最高の作品だ」
と語っている。彼の信仰、人生観、死生観、魂の叫び、そのすべてが注ぎ込まれた、文字通り全存在を賭けた精神的遺言とも言うべき作品である。
その作品名を、日本語の俗語で「嘔吐」を意味する「ゲロ」と結びつけ、面白半分に略す。
これは「親しみ」などでは断じてない。下品な連想を利用した嘲弄であり、侮辱であり、無理解の極致である。
この略称を口にする者は、自らを「エルガーファン」と称する資格はない。
なぜならそこには、作品に対する畏敬も、作曲家への共感も、精神的理解も一切存在しないからである。
もしエルガーがこの略称の意味を知ったなら、どう思うだろうか。
悲嘆、怒り、絶望——いずれにせよ、深い傷を負うことは間違いない。
それを想像することすらできない感性で「ファン」を名乗ること自体、欺瞞以外の何物でもない。
誤訳というもう一つの罪 ——「Sursum corda」の悲劇
同様に許しがたいのが、**Sursum corda(スルスム・コルダ)**の誤訳問題である。
この言葉はカトリック典礼における極めて重要な句であり、
「心を高く上げよ」
「心を天に向けよ」
「聖体奉挙」
と訳されるべきものである。宗教的・精神的高揚を象徴する言葉だ。
ところが、ある日本の輸入レーベル(東京エムプラス)はこれを**「高地」**と誤訳して発売してしまった。確かに英語の elevation には建築用語的意味もある。しかし、この文脈でそれを地理用語に落とし込むのは、完全な誤訳であり、文化的無理解の象徴である。
さらに悪質なのは、この誤訳を面白がって拡散する自称「エルガーファン」の存在だ。これはもはや無知ではなく、無自覚な文化破壊行為と言ってよい。
略称文化の一線 —— 何が許され、何が許されないのか
「シーピク」(海の絵)
「バイコン」(ヴァイオリン協奏曲)
ここまではまだ許容範囲である。
しかし「ゲロ夢」は完全にアウトである。
これは語感・連想・意味すべてにおいて、品位を欠き、作曲家の精神世界を踏みにじっている。
親しみとは、理解と共感の上に成り立つ。
理解も共感も欠いた「親しみ」は、単なる悪ノリであり、自己満足であり、文化的暴力に等しい。
この風潮を是正するために
この問題を根本から是正するためには、以下の三点が不可欠である。これらは日本エルガー協会の活動そのものである。
教育的視点の普及
作品の歴史的背景、宗教的意味、作曲者の精神世界を、評論・講演・文章を通じて丁寧に伝える努力が必要である。
SNS・ネット空間での姿勢表明
「それは失礼だ」と、きちんと声を上げること。沈黙は黙認と同義である。これは自戒も込めて言いたい。
良識の共有
感情論ではなく、「なぜ問題なのか」を論理的に説明し、文化としての健全性を守る姿勢を共有すること。
それは「正論」ではなく「誠実さ」である
これらの主張は、決して堅苦しい正論ではない。
音楽と芸術に対する最低限の誠実さと敬意である。
言葉は文化を映す。
言葉が荒れれば、文化も荒れる。
我々が何気なく使うその四文字が、巨匠の魂を踏みにじっていないか。
それを自問する感性こそが、真の音楽愛の出発点である。


