再びロンドンへ

詩人としてのファゴット——サカキーニが描くエルガー《ロマンス》の静かな深み

エルガーの作品には『ロマンス』と名付けられた作品が2つ存在しているのをご存じだろうか?『ロマンス』(Romance)ホ短調 作品1は、エドワード・エルガーが1878年もしくは1879年に作曲したヴァイオリンとピアノのための楽曲。もう一つここに紹介する『ロマンス』(Romance)ニ短調 作品62である。
こちらの《ロマンス》はエルガーが作曲したファゴットと管弦楽のための楽曲。作曲者自身によるチェロと管弦楽のための編曲も存在する。両バージョンとも1909年から1910年にかけての作曲である。
また。ピアノ伴奏版での出版もされている。 もともとファゴット(英国ではバスーンと呼ばれることが多い)得意だったので、エルガーにとってファゴットは特別の愛着のある楽器でもあった。ファゴット奏者にとってはファゴット単独のレパートリー曲はそれほど多くないという理由のため、エルガーの作品の中ではメジャーとはいえない曲ながら、多くのファゴット奏者にとって貴重なレパートリー曲となっている。チェロバージョンも捨てがたいが、やはりファゴットという楽器の魅力を伝えるにはオリジナルの方がやや魅力的である。

 

ジョージ・サカキーニとカン・スジンによる本演奏は、《ロマンス》という小品が本来持っている親密さと陰影の柔らかさを、絶妙なバランスで可視化した名演である。

 

まず、サカキーニのファゴットは音色のコントロールが卓越しており、エルガーがファゴットに与えた“詩人としての語り口”を真正面から具現化している。冒頭の沈んだニ短調の旋律は、 vibrato の幅を最小限に抑えつつ、息の流れによる自然なニュアンス変化を重視しており、エルガーの作品に特有の内省的で少し翳りのある抒情が、過度に湿らず端正に立ち上がっている。

 

中間部のピウ・モッソでは、音型の軽やかさと articulations の明晰さが際立ち、しなやかでありながら芯のある発音が聴き手を引きつける。特に音と音の間の「気配」の扱いが絶妙で、エルガーが書いたわずかな煌めきや伸びやかな息遣いが自然に立ち現れる。

 

カン・スジンのピアノは全体を通して品格あるアンサンブル・パートナーとしての役割を完璧に果たしている。旋律がファゴットに渡される時にはしっとりとした支えを提供し、中間部では柔らかくも瑞々しい和声の流れで作品に温度と奥行きを与える。ピアノ版はしばしばオーケストラ版より響きが薄くなる危険をはらむが、このデュオは音像が決して痩せることなく、むしろ親密な室内楽的魅力を増している。

 

終結部の落ち着いた再現も秀逸で、曲がニ長調の静かな光に閉じていく際、サカキーニの音色は寂寞と安らぎの境界線に佇み、作品にふさわしい余韻を残す。小品ながら、エルガーが見つめた人生の静かな感慨が丁寧に描かれた演奏である。

 

以下に、《ロマンス(Romance) ニ短調 作品62》について オーケストラ版・ピアノ版・チェロ版 の比較を簡潔かつ体系的にまとめる。

 

《ロマンス》作品62

—ファゴット版・オーケストラ版・チェロ版の比較—

 

1. オリジナル(ファゴット+管弦楽)版の特徴

 

オリジナルはエルガーが最も自然に書いた形であり、作品の性格が最も明瞭に表れる。
ファゴットの独特の“人間の声に近い低めのテノール”のような音域と、内省的で翳のある音色が、作品の哀愁と抒情を直接的に表象する。オーケストラは小規模編成で、色彩の厚みよりも透明度を重視した書法である。

 

作品が“過剰に歌い過ぎる”ことを避け、むしろ寡黙で内に秘めた感情を湛えるように響く点が特徴である。

 

 

●音色のコントラストと陰影が最も美しく出る版

 

弦楽器による2小節の導入動機は、暖かさと陰影を帯びており、独奏ファゴットが入る瞬間の「人が語り始めたような自然さ」が際立つ。
中間部のピウ・モッソでは、木管群の色彩が加わることで、わずかに春の光のような明るさが差し込む。この明暗の移ろいは、オーケストラ版に固有の魅力である。

 

●“語り手としてのファゴット”が最も明確

 

ファゴットという楽器が、本来の音域で自然にフレーズを語り、ため息のような弱音から、ほのかに温度の上がる中間部まで、有機的な息遣いで物語を織りなす。
マイケル・ケネディが述べた「コメディアンではなく詩人としてのファゴット」のイメージが最も適切に示されるのは、この版である。

 

 

2. ピアノ伴奏版(独奏+ピアノ)

 

●親密で室内楽的な美

 

ピアノ版は響きが透明で、独奏のニュアンスが“裸のまま”露出する。
弱音の移り変わりや、フレーズ終端のわずかな減衰が繊細に聴こえるため、より内面的・プライベートな表情を示す。

 

●オーケストレーションの色彩は後退

 

オーケストラ版にある木管群の柔らかな光や、弦楽の厚みは失われるが、代わりにピアノの和声が持つ素朴で静謐な輝きが前景化する。
コンサートホールというより、作曲者の書斎やサロンで奏でられているような趣がある。

 

※サカキーニ&カン・スジンによる演奏は、この版の代表的な美点を高いレベルで具現化している。

 

 

3. チェロ版(チェロ独奏+管弦楽、またはピアノ)

 

●“歌う力”は最も強い

 

チェロは声楽的なレガートが可能で、ファゴットよりも音が持続するため、旋律線がより大きな円弧を描く。
哀愁は深まるが、楽器固有の歌心が強いため、作品がわずかに“甘美”に傾く傾向がある。

 

●ファゴット特有の“語り口”は薄れる

 

エルガーがファゴット固有の音域や発音に合わせて書いたニュアンス──特に冒頭テーマの“語り始める”ような雰囲気──は弱まる。
そのため、音楽の性格が「独白(モノローグ)」から「アリア」に寄る印象がある。

 

●オーケストレーションとの相性

 

チェロの音色は弦楽群と溶けやすいため、独奏がオーケストラの中に埋もれやすい点が注意すべきポイントである。
ただし、優れた演奏では、独奏チェロの深い陰影が作品に新たな親密さを与える場合もある。

 

 

 

 

《ロマンス》作品62はファゴットのために最適化された内向的な語りの音楽であり、オーケストラ版が最も作品の本質を示す。
ピアノ版は親密さ、チェロ版は歌心という別方向の魅力を付与するが、作曲者が描いた“静かな独白”のニュアンスは、やはり原典において最も自然である。

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