燃え上がる《エニグマ》 ― カスプシクとワルシャワ・フィルが描いた情熱の極致
近年の《エニグマ変奏曲》演奏は、洗練された構築性や客観性を重視する傾向が強い。サー・サイモン・ラトルやエドワード・ガードナー、ワシリー・ペトレンコらによる現代的名演は、作品の構造を明晰に示しながら、過度な感傷を排している。
しかし、2017年11月11日、ワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団を率いた ヤツェク・カスプシク の演奏は、その流れとは全く異なる方向を向いている。
これは現代ではほとんど絶滅しかけている「感情を隠さないエルガー」である。
しかも単なる情緒過多ではない。
聴き進めるうちに感じるのは、「楽団全体がこの音楽に心から共感し、その感情を抑え切れなくなっている」という異様な熱気である。
冒頭の主題からして既に尋常ではない。
通常なら謎めいた抑制の中から始まる音楽が、ここでは最初から人間の体温を帯びている。フレーズは大きくうねり、弦楽器は惜しげもなく歌う。カスプシクは決して音楽を客観視しない。エルガーの感情の中へ、自ら飛び込んでいくのである。
中間の変奏群でもその姿勢は一貫している。
「C.A.E.」は単なる優雅な愛情表現ではなく、愛する人への切実な眼差しとして響く。「Ysobel」は繊細でありながら濃密な情感を湛え、「Dorabella」は可憐さよりも人間味が前面に出る。
特に印象的なのは「Troyte」である。
この変奏はしばしば荒々しいユーモアとして処理されるが、ここではほとんど爆発寸前のエネルギーに達している。ワルシャワ・フィルの金管と打楽器は制御されながらも限界近くまで熱を帯びており、演奏者たちの興奮がそのまま伝わってくる。
そして何より圧倒的なのが「Nimrod」である。
近年主流となった静謐で瞑想的なアプローチとは対極に位置する。カスプシクは旋律を大きく歌わせ、頂点では感情を隠そうとしない。
それはボールトの祈りではない。
ラトルの人間的共感とも異なる。
むしろ、ジョン・バルビローリ の濃厚な情感と、ジュゼッペ・シノーポリ の神経質なまでの執着、さらに レナード・バーンスタイン の燃焼する情熱を一つに溶かし込んだような世界である。
だが興味深いのは、それでも決して下品にならないことだ。
エルガー特有の高貴さは最後まで失われない。
そのため聴き手は感傷に溺れるのではなく、人間の感情の巨大な奔流に巻き込まれるのである。
終曲「E.D.U.」に至る頃には、演奏はほとんど祝祭的熱狂へ達する。
ここで感じるのは、しばしば語られる「英国紳士の節度」ではない。
友情、愛情、感謝、誇り、郷愁――そうした感情が堰を切ったように流れ出す人間ドラマである。
かつて 尾高忠明 は、エルガーを演奏していると感極まって涙する楽員がいる、と語ったことがある。
この映像を見ていると、その言葉が単なる比喩ではなかったことが理解できる。
ワルシャワ・フィルの奏者たちは機械のように譜面を再現しているのではない。音楽の中に生きているのである。ある者は身を乗り出し、ある者は全身で旋律を歌い、ある者は感情を押し殺すように楽器を抱えている。
その姿は、まるでエルガーの友人たちの肖像画が百年以上の時を超えて再び命を吹き込まれたかのようだ。
現在の演奏界では、このような濃厚なエルガーはほとんど姿を消してしまった。
だからこそ、この演奏は貴重である。
それは歴史的な意味での「正統派」ではないかもしれない。だが、エルガーの音楽の奥底にある情熱、愛情、そして人間への限りない共感を、ここまで剥き出しにした演奏は滅多に存在しない。
これは《エニグマ変奏曲》というよりも、一つの巨大な感情のドラマである。
そしてその熱量は、バルビローリをさらに熱く、シノーポリよりさらに執拗に、時にはバーンスタインをも凌ぐほどの燃焼を見せている。
現代ではほとんど失われてしまった、「心で泣くエルガー」の稀有な記録なのである。




