ラトルと《エニグマ変奏曲》――40年にわたる対話の結実
サー・サイモン・ラトル指揮 バイエルン放送交響楽団(2024年1月26日 ミュンヘン・ヘルクレスザール)
サー・サイモン・ラトルほど《エニグマ変奏曲》と深い縁を持つ指揮者は、現代ではそう多くないだろう。
彼は若き日に率いた バーミンガム市交響楽団 時代からこの作品を重要なレパートリーとして扱い、その後の ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ロンドン交響楽団、そして現在の バイエルン放送交響楽団 に至るまで、着任先ごとに必ずと言ってよいほど《エニグマ変奏曲》を取り上げてきた。しかも、それらはいずれも単なるレパートリー演奏ではなく、その時々のラトルの芸術観を映し出す重要な記録となっている。
2024年1月、ミュンヘンのヘルクレスザールで収録された今回の演奏も、その系譜に連なる新たな到達点と言ってよい。
ラトルのエルガー解釈の特徴は、英国的伝統への深い理解と、国際的なオーケストラ文化の融合にある。彼は決してエルガーを「英国ローカルの作曲家」として扱わない。かといってドイツ後期ロマン派へと読み替えるわけでもない。その絶妙な均衡感覚こそが、ラトルのエルガーを特別なものにしている。
冒頭の主題からして印象的である。
音楽は重々しく始まるのではなく、しなやかに呼吸しながら前へ進む。各変奏は独立した性格小品として描かれる一方で、全体は大きな交響的アーチの中へ巧みに組み込まれている。ラトルは作品を「14の肖像画」としてだけでなく、「ひとつの巨大な交響詩」として捉えているのである。
「C.A.E.」では妻アリスへの愛情が温かく歌われる。過度な感傷はないが、細部に宿る柔らかなニュアンスが実に美しい。
「R.B.T.」や「W.M.B.」ではユーモアが生き生きと描かれる。ラトルはこの作品に含まれる英国的なウィットを決して見逃さない。ここにはしばしば見られるような重厚一辺倒のエルガー像は存在しない。
「Troyte」ではバイエルン放送交響楽団の驚異的な機動力が発揮される。リズムは鋭く、エネルギーは充満しているが、決して騒々しくならない。緻密に制御された熱狂である。
そして当然ながら最大の聴きどころは「Nimrod」である。
ラトルはここで近年流行する極端な遅いテンポを採らない。旋律は自然な呼吸を保ち、フレーズは大きく歌われる。その結果、この音楽は追悼や悲嘆だけでなく、人間への深い共感と温かさを湛える。ボールトのような禁欲的崇高さとも、バルビローリのような濃厚な情感とも異なる、極めて現代的な「ニムロド」である。
終曲「E.D.U.」に至ると、ラトルの構築力はさらに際立つ。
壮大さはある。しかし威圧感はない。音楽は輝かしく高揚しながらも決して帝国主義的な誇示へ陥らない。むしろ友人たちとの絆によって形成された一人の人間エルガーの肖像として結実している。終結部の輝きは見事だが、その輝きの奥にはどこか人生の儚さを見つめる視線も感じられる。
興味深いのは、ラトルが年齢を重ねるごとにエルガーへ近づいていることである。
1980年代のバーミンガム時代には若々しい推進力が前面に出ていた。ベルリン時代には巨大な交響的スケールが加わった。ロンドン時代には英国的伝統への回帰が感じられた。そして今回のBRSO盤では、それらすべてが統合されている。
若さの情熱、壮年期の構築力、そして円熟した人間理解。
それらが自然に融合した結果として、この演奏は生まれている。
ボールトやバルビローリのような歴史的名演が依然として不動の地位を占めていることは間違いない。しかし現代の《エニグマ変奏曲》を代表する演奏を一つ挙げるなら、このラトルとバイエルン放送交響楽団による2024年の記録は、間違いなくその有力候補の一つだろう。
ラトルは長年にわたり、行く先々のオーケストラで《エニグマ変奏曲》を演奏し続けてきた。それは単なる愛奏曲だからではない。この作品の中に、英国音楽の伝統だけでなく、人間そのものへの深い洞察を見出しているからである。
そして今回の演奏は、その長い対話の現時点における最も成熟した答えの一つなのである。




