マールバンク
ウースターの中心街から北東へ、緩やかな坂を登った丘の上に「マール・バンク」はあった。窓辺に立てば、眼下にセヴァーン川の流れがきらめき、ウースター大聖堂の尖塔が空を切り裂くようにそびえ、彼方にはモールヴァン・ヒルの柔らかな稜線が連なっていた。
この眺望は、若き日の放浪と栄光と喪失をすべて包み込む、ひとつの完結した世界のようでもあった。
娘キャリスはすでに嫁ぎ、家に残された家族は、ミーナ、メグ、マルコ――三匹の愛犬だけであった。
晩年のエルガーにとって、彼らとの静かな交わりは、何ものにも代えがたい慰めであった。愛犬が病に伏せば、すべての予定をキャンセルして看病に付き添ったという逸話は、彼の孤独と優しさの深さを雄弁に物語っている。
この「マール・バンク」において、1930年、73歳のエルガーは《セヴァーン組曲》を作曲する。ブラス・バンドのためのこの作品には、故郷の河と丘の風景が、素朴な輝きとなって刻み込まれている。
後に作曲者自身によってオーケストラ版へ、さらに親友アイヴォー・アトキンスによってオルガン版へと姿を変え、《オルガン・ソナタ第2番》として結実した。
ほかに、《威風堂々》第5番が書かれ、これが壮麗な行進曲群の最後の頁となった。
1931年には准男爵に叙され、1933年には大十字章(G.C.V.O.)を授与される。名誉はなお彼を追い続けた。
同年、フランスを訪れ、病床のフレデリック・ディーリアスと再会しているのも象徴的である。二人は同じ年、同じように沈黙のうちに世を去ることになる。
1931年、ロンドンにアビー・ロード・スタジオが完成すると、その落成式において、エルガーは《希望と栄光の国》を指揮した。
続く最初の録音セッションには、彼自身が最も愛した管弦楽作品、《ファルスタッフ》が選ばれた。
翌1932年には、当時16歳の天才ヴァイオリニスト、ユーディ・メニューインを迎え、《ヴァイオリン協奏曲》の録音を行う。老匠と神童の邂逅は、時代を超えて語り継がれる奇跡の一頁となった。
この頃、ジョージ・バーナード・ショウやウィリアム・ヘンリー・リードらの励ましを受け、《交響曲第3番》と歌劇《スペインの貴婦人》に取り組むが、すでに肉体は創作の意志に応える力を失いつつあった。
1933年、坐骨神経の激痛により入院。診断は大腸癌――すでに手遅れの状態であった。
その事実は、本人には告げられず、娘キャリスとリードのみに知らされた。
帰宅を許されたエルガーは、ベッドに横たわったまま、ロンドンと結ばれたマイクロフォンを通して、アビー・ロード・スタジオの録音を指示し続けた。
指揮台に立つことが叶わぬ彼の代わりに、ローレンス・コリンウッドがタクトを握っていた。
同年、愛犬の名を冠した小品《ミーナ》を作曲する。これが、事実上、生涯最後の作品となった。
静まり返った寝室で、彼はガイスバーグのプロデュースによるハリエット・コーヘンとストラットン弦楽四重奏団の演奏した《ピアノ五重奏曲》のSPレコードを、何度も繰り返し聴いていたという。
そこには、亡きアリスとの最後の幸福な日々が、音となって封じ込められていた。
1934年2月23日、午前7時45分。
エドワード・エルガー、76年の生涯は、静かに閉じられた。
三日後、雪の降り積もる寒い日、アリスの眠るセント・ウルスタン教会において葬儀が行われ、その傍らに埋葬された。
ウースターのセント・ジョージ教会では追悼式が営まれ、《ピエ・イエス=アヴェヴェルムコルプスの英語改変版》が静かに響いた。
その旋律は、栄光と孤独、勝利と挫折、愛と喪失を生き抜いたひとりの魂が、ついに永遠の安らぎへと帰ってゆく、その最後の祈りであった。

〔参考CD〕
*《セヴァーン組曲》 ヒコックス指揮/ロンドン響
ブラス・バンド版、オーケストラ版、オルガン版(オルガン・ソナタ2番)とあるが、この演奏はオーケストラ版。ゴードン・ジェイコブがオーケストラに編曲した《オルガン・ソナタ第1番》に比べると大分おとなしい編曲だと言える。
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*《オルガン・ソナタ第2番》 ハント
アトキンスによるオルガン版。この演奏でオルガンを弾いているドナルド・ハントはアトキンスと同じウースター大聖堂のオルガニスト。
*《ミーナ》 ヒコックス指揮/ノーザン・シンフォニア
エルガー最晩年の小品。コリンウッド、マリナーの録音もあるが、このヒコックス盤がチャーミングの極み。



