電気録音

 

1926年、フレッド・ガイスバーグのプロデュースのもと、HMV社による電気録音プロジェクトが始動する。これは、音楽史における大きな転換点であり、エルガーにとってもまた、晩年に訪れた最後の創造的刺激であった。

 

 すでに1914年から始まっていたアコースティック方式による録音によって、彼の主要作品の多くは記録されていた。だが、電気録音は、それらとはまったく異なる次元の表現力を備えていた。
 音は、もはや巨大なラッパに押し込められることなく、微細なニュアンスとともに、より自由に、より忠実に刻印されていく。

 

 この革新は、老境に入った作曲家の好奇心を再び呼び覚ました。
 彼は、かつて自らの耳で夢見た響きが、初めて正確な姿で後世に残される可能性に、静かな興奮を覚えたのである。

 

 同時に、可搬型録音装置の開発によって、演奏会場でのライヴ録音も可能となった。
 1927年2月26日、ロイヤル・アルバート・ホールにおいて、エルガー自身の指揮による《ゲロンティアスの夢》の録音が行われる。巨大な空間に満ちる合唱とオーケストラの響きは、そのまま時の器へと封じ込められた。
 さらに同年9月には、ヘリフォード大聖堂において、再び《ゲロンティアスの夢》が録音される。石造の天井に反射する残響とともに、その音楽は、祈りのように記録された。

 

 この二つの録音は、エルガー芸術の核心が、作曲家自身の手によって未来へと手渡された瞬間であった。

 

 1927年11月、70歳となったエルガーは、ウースターの「バッテンホール・マナー」へと移り住む。だが、その定住は長くは続かない。翌1928年4月7日には、シェイクスピアゆかりの地、ストラットフォード・アポン・エイヴォンの「テディントン・ハウス」へと転居する。
 それは、大いなる劇作家の故地に身を置き、愛する戯曲の上演に親しむためであった。人生の黄昏において、彼は再び言葉と物語の世界へと回帰したのである。

 

 しかし、その安息もまた束の間であった。
 1929年12月3日、72歳のエルガーは、再びウースターへと戻り、レインボー・ヒルの「マール・バンク」(現・エルガー・コート)に居を定める。
 ここが、彼の生涯最後の住処となる。

 

 幾度もの転居は、落ち着きのなさの表れというよりも、むしろ、魂の終着点を探し続けた遍歴の記録であったように思われる。
 そしてこの丘の家で、エルガーは、やがて訪れる沈黙と静かに向き合うことになる。

 

〔参考CD〕
*《ゲロンティアスの夢》 エルガー指揮/ロイヤル・アルバート・ホール管ほか
 Part 1.=Prelude/Kyrie eleison/Rescue him/Go, in the name Part.2=Praise to the Holiest/And now the threhold/Jesu! by that shuddering/Take me away~Angel's farewellを収録。
*《ゲロンティアスの夢》 エルガー指揮/ロンドン響ほか
Part 1.=So pray for me/O Jesu, help Part 2.=Jesu! by that shuddering dread/Take me awayを収録。
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