「やればできる男」の奇跡――バレンボイムの《エルガー交響曲第2番》(1972)
私は基本的に、ダニエル・バレンボイムをエルガー指揮者として高く評価していない。その理由は、かつて述べた演奏上の違和感もさることながら、何よりジャクリーヌ・デュ・プレに対する不誠実な振る舞いへの感情的なわだかまりが大きい。
しかし、そんな私でも例外的に無条件で認めざるを得ない録音が一つだけある。
1972年、CBSに録音されたロンドン・フィルとの交響曲第2番, 作品 63である。
これは凄まじい。
2014年にシュターツカペレ・ドレスデンと再録音した同曲が、正直言って凡庸で精彩を欠く出来だっただけに、なおさらこの1972年盤の異様なまでの完成度が際立つ。とても同じ指揮者による演奏とは思えないほどの落差である。
何より驚かされるのは、その熱量だ。
情熱の激しさだけなら、ジョン・バルビローリやジョゼッペ・シノーポリ、ブライデン・トムソンをも上回る。しかし、その熱が決して暴走しない。作品のフォルムは最後まで揺るがず、むしろ構築感においてはエイドリアン・ボールトをも凌駕する瞬間すらある。
録音の鮮明さも特筆ものだ。
オーケストラの各声部が見事なまでに分離し、エルガーの複雑なオーケストレーションが克明に浮かび上がる。細部をこれほど鮮烈にえぐり出しながら、全体の巨大なアーチも決して失われない。
この演奏を聴いていると、「これが本当に人間業なのか」と思わされる。
第2楽章の巨大なクライマックスは圧巻だ。
多くの指揮者がここを大仰に演出し、感情を押しつけがちだが、バレンボイムにはそれがない。音楽が自然に高まり、結果として巨大な慟哭へと到達する。
そこに聞こえるのは指揮者の芝居ではない。
まさに作曲者エルガー自身の悲嘆そのものである。
さらに驚くべきは終楽章だ。
これほどの大熱演を繰り広げながら、最後まで一切パッションが衰えない。普通ならどこかで息切れしそうなものだが、この演奏にはそれがない。
そして、エルガー愛好家として特に注目したいのが練習番号149番である。
ここでトランペットのハイHを、慣習的な2小節保持ではなく、楽譜どおり1小節で切っているのである。
この箇所は多くの指揮者が伝統的な演奏慣習に従って2小節伸ばしている。しかしバレンボイムはあえて原典に従った。
しかも皮肉なことに、2014年の再録音では逆に慣習どおり2小節伸ばしている。
つまり1972年盤には、若きバレンボイムの明確な意思とポリシーが刻み込まれているのである。
この演奏を聴くたびに思う。
もしウィリヘルム・フルトヴェングラーがエルガーの第2交響曲を指揮していたら、あるいはこんな音楽になったのではないか――と。
熱狂と構築、激情と統御。
本来なら両立し難い要素が、ここでは奇跡のような均衡を保っている。
だからこそ、私はこの録音を「ただ一度きりの大名演」と呼びたい。
そして同時に、ある種の悔しさも覚える。
バレンボイムは、やればここまでできるのだ。
しかし、彼はその能力を常に発揮するわけではない。
できるくせに、やらない。
だから私は、彼を完全には好きになれないのである。
だが、この1972年の《エルガー交響曲第2番》だけは別だ。
これは間違いなく、20世紀エルガー演奏史に刻まれるべき奇跡的名演の一つなのである。
同じ指揮者とは思えない42年の落差――バレンボイムのエルガー《交響曲第2番》1972年盤と2014年盤
バレンボイムは、二度にわたって交響曲第2番を録音している。
1972年:London Philharmonic OrchestraとのCBS録音
2014年:Staatskapelle Berlinとの再録音
しかし、この二つを続けて聴くと、驚くべきことに「同じ指揮者による同じ作品」とは到底思えない。
第1楽章――若き獅子と老巨匠
1972年盤は冒頭から尋常ではない。
テンポ設定は決して極端ではないにもかかわらず、音楽全体が巨大な推進力を持って前進する。弦の刻みには緊張が漲り、フレーズは呼吸しながらも決して弛緩しない。
一方、2014年盤は全体に重い。
テンポはむしろ遅めだが、それが深みや哲学性には結びつかず、音楽の推進力を奪ってしまっている。フレーズの終わりが曖昧で、各エピソードが有機的に結び付かない。やる気ある?と問いたくなってしまうような投げやり感。
1972年盤では「巨大な建築物」が見えているのに対し、2014年盤では部分部分の描写に留まっている印象が強い。
第2楽章――慟哭と停滞
両盤の差が最も顕著なのが、このラルゲットである。
1972年盤のクライマックスは圧倒的だ。
感情は限界まで高まるが、一切わざとらしくない。まるで音楽そのものが自然に涙を流しているかのようである。
ここで聞こえるのは「指揮者の演出」ではない。
エルガーの心そのものだ。
一方、2014年盤は感情の高まりが希薄で、各クライマックスも平板に感じられる。決して粗い演奏ではないのだが、聴き終えて心を揺さぶられる瞬間がない。
1972年盤が「生きた悲しみ」なら、2014年盤は「悲しみについて考えた演奏」と言えるかもしれない。
第3楽章――燃焼と安全運転
1972年盤のロンドは驚異的である。
リズムは鋭く、オーケストラは限界ぎりぎりまで追い込まれながらも崩壊しない。
その緊張感は、むしろバルビローリやシノーポリ以上と言ってもよい。
対する2014年盤は安全運転である。
オーケストラの技術は申し分ないが、危険なほどの熱気も、切迫感もない。
第4楽章――決定的な違い
1972年盤は終楽章に入っても全く息切れしない。
これだけの熱演を続けながら、最後までパッションが衰えないことに驚かされる。
しかも、練習番号149のトランペットのハイHを楽譜どおり1小節で切っている。
これは原典を尊重した明確な意思表示であり、若きバレンボイムの強い主張を感じさせる。
ところが2014年盤では、慣習どおり2小節伸ばしている。
細かな箇所ではあるが、この違いは象徴的だ。
1972年盤には「自分のエルガーを作り上げる」という意志がある。
2014年盤には、それがほとんど感じられない。
1972年盤は、熱狂と構築性が奇跡的に両立した稀有な名演である。もし「フルトヴェングラーがエルガーを振ったら」と想像するなら、おそらくこれに近いものだったのではないかと思わせるほどの圧倒的な説得力を持つ。
一方の2014年盤は、決して駄演ではない。だが、1972年盤を知る者にとっては、どうしても物足りなさが残る。
結局のところ、この比較から浮かび上がるのは一つの事実である。
バレンボイムは、やればここまでできる指揮者だった。
しかし、その奇跡は1972年にただ一度、ロンドン・フィルとの録音でのみ完全な形を取ったのである。





