マール・バンク

愛の音楽家エドワード・エルガー

マールバンク

 

 ウースターの中心街から北東の方向の丘に登ったところに「マール・バンク」はある。この家の窓からはセヴァーン川、ウースター大聖堂、モールヴァン・ヒルを見下ろすことができた。娘のキャリスは既に結婚してしまい、家族はミーナ、メグ、マルコという犬だけだった。晩年の彼にとって最大の楽しみの一つが、この愛犬たちとのふれあいであったという。愛犬が病気になった時、エルガーは全ての予定をキャンセルして愛犬の看病にあたったほど。
 エルガーは、この家で1930年、73歳の時に《セヴァーン組曲(Severn Suite, op. 87)》を作曲している。これはブラス・バンドの選手権用に書かれたもので、1932年作曲者自身の手によりオーケストラ編曲され、1933年エルガーの親友でもあるウースター大聖堂のオルガニストのアイヴォー・アトキンスによってオルガン編曲され《オルガン・ソナタ第2番(Organ Sonata No.2, op.87A)》となっている。ほかには《威風堂々》シリーズの最後になる「5番」を作曲。1931年には准男爵(バロネット)に叙され、1933年には大十字章(G.C.V.O)を授かっている。同年エルガーはフランスに赴いた際、晩年のフレデリック・ディーリアスを訪ねているのは興味深い。2人は同じ年に没している。
 1931年ロンドンにHMV社(現EMI)がアビー・ロード・スタジオを完成させ、11月12日落成式でエルガーは《希望と栄光の国》(オーケストラによる《威風堂々第1番》の中間部のみ)を演奏している。そして、第1回目の録音セッションには、エルガー自らが傑作であると自認していた交響的習作《ファルスタッフ》が選ばれた。翌1932年エルガー75歳の時、同スタジオで当時16歳だったユーディ・メニューインをソリストに《ヴァイオリン協奏曲》を録音している。
 この頃親交を深めていたジョージ・バーナード・ショウや旧友のウィリアム・ヘンリー・リードらに励まされつつ《交響曲第3番》、歌劇《スペインの貴婦人》の作曲に取り組むものの、既にエルガーには筆を進める体力が残されていなかった。1933年になると座骨神経の痛みがひどくなり、エルガーの体調は悪化し、一時サウス・バンク病院に入院する。ここでガンの症状がかなり進行していることが判明するが、既に手遅れの状態であった。エルガー本人には告知されず、キャリスとリードにだけ知らされた。エルガーは帰宅を許可され、自宅のベッドに横たわり、ロンドンに繋がっているマイクロフォンを片手にアビー・ロード・スタジオの録音セッションを指示した。指揮台に立てなくなった彼の代わりにローレンス・コリンウッドが指揮棒を握っていた。1933年に愛犬の名前をつけた《ミーナ》を作曲し、これが事実上生涯最後の作品となってしまった。ベッドに横たわりながらエルガーは、ガイスバーグのプロデュースによるハリエット・コーヘンとストラットン弦楽四重奏団による《ピアノ五重奏曲》のレコードを何度も繰り返し聴いていた。この曲は、アリスとの最後の思い出がこめられたものなので、それを追憶していたのだろう。
 1934年2月23日午前7時45分、エドワード・エルガーは76歳の生涯を閉じる。3日後の2月26日、アリスが眠るセント・ウルスタン教会で葬儀が行われ、ここに埋葬された。雪が降り積もるとても寒い日であった(1970年には娘のキャリスも同所に埋葬されている)。ウースターのセント・ジョージ教会ではセレモニーが行われ《ピエ・イエス(アヴェ・ヴェルム・コルプス)》)が演奏された。

 

〔参考CD〕
*《セヴァーン組曲》 ヒコックス指揮/ロンドン響
 ブラス・バンド版、オーケストラ版、オルガン版(オルガン・ソナタ2番)とあるが、この演奏はオーケストラ版。ゴードン・ジェイコブがオーケストラに編曲した《オルガン・ソナタ第1番》に比べると大分おとなしい編曲だと言える。
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*《オルガン・ソナタ第2番》 ハント
 アトキンスによるオルガン版。この演奏でオルガンを弾いているドナルド・ハントはアトキンスと同じウースター大聖堂のオルガニスト。
*《ミーナ》 ヒコックス指揮/ノーザン・シンフォニア
 エルガー最晩年の小品。コリンウッド、マリナーの録音もあるが、このヒコックス盤がチャーミングの極み。

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