ヒラリー・ハーンの《ヴァイオリン協奏曲》
エルガー /ヴァイオリン協奏曲、ヴォーン・ウィリアムズ:あげひばり ハーン、デイヴィス&ロンドン響(DG)
エルガーの協奏曲作品、特に《チェロ協奏曲》は、長年にわたりジャクリーヌ・デュ・プレの名演の影響もあり、「女流演奏家でなければ名演が生まれない」といった見方が流布してきた。一方、《ヴァイオリン協奏曲》においては、メニューインの伝説的な録音の影響か、「女流奏者には分が悪い」という偏見が根強く残っていたことも否めない。マリー・ホール、イダ・ヘンデル、チョン・キョンファ、竹澤恭子といった女性奏者による録音が存在するものの、いずれも決定的な存在にはなりえていなかった。
だが、ヒラリー・ハーンとサー・コリン・デイヴィスによるこの録音は、そのような通念を打ち破るだけの力を有している。これは、エルガーの《ヴァイオリン協奏曲》に新たな基準を打ち立てるかもしれない、極めて高水準の名演である。
冒頭から耳を引くのは、羽毛で撫でるような繊細なボウイングであり、楽句のひとつひとつに丁寧なニュアンスが込められている点である。ハーンの表現は、感情の微細な揺らぎまでも的確に掬い取るものであり、聴き手にとって痒いところに手が届くかのような心地よさを伴う。そして、サー・コリンの支えも実に見事で、オーケストラとの呼吸も隙がなく、協奏曲としての有機的統一感を強く印象づけている。
印象的なエピソードとして、かつてサー・コリンが別のヴァイオリニストとこの曲を演奏した際、第1楽章の第2主題(いわゆる「ウィンドフラワー」)において、ソリストが過剰なスタッカートを施し、やや軽薄な表現で演奏したことがあった。この主題は、作曲当時のエルガーが心の奥底に抱いていた私的で繊細な恋愛感情の反映であるがゆえに、拙速な演奏ではその深意を損なう。しかし、その時のサー・コリンは動じることなく、レガートを保ち、テンポを崩すことなく主題を導いた。「わかっている指揮者」と「わかっていないソリスト」の差が露呈した瞬間であった。
今回のハーンとの共演においては、そうした齟齬は一切存在しない。むしろ、ソリストと指揮者、オーケストラを含めたすべてのベクトルが一方向を指しており、エルガーの意図を見事に昇華させた共演である。
昨今、英国を中心にエルガーの新録音は月ごとのように発表されているが、日本国内で正規にリリースされるものは、そのうちのわずか10%にも満たないのが現状である。だが、その数少ない国内盤の中には、きらりと光る名演があるのも事実であり、本盤はまさにその好例といえよう。
この演奏に比肩しうる録音としては、尾高忠明指揮、加藤知子独奏、札幌交響楽団によるライヴや、R・ヒコックス指揮、タスミン・リトル独奏、BBCウェールズ響との共演などが挙げられるが、いずれにせよ本盤は《エルガー:ヴァイオリン協奏曲》の最右翼に位置づけられるべき一枚である。
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《ヴァイオリン協奏曲》のスコア
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