悪夢の大野和士のエニグマ
東京都交響楽団
2023年4月18日 ·
第973回定期演奏会A
4/21(金) 19:00 東京文化会館
指揮/大野和士
チェロ/上野通明
ターネジ:タイム・フライズ(Time Flies)(2020)
[都響、BBCラジオ3、NDRエルプフィル共同委嘱作品
/日本初演]
ルトスワフスキ:チェロ協奏曲(1970)
エルガー:エニグマ変奏曲 op.36
都響、大野和士のターネジとルトスワスキーは確かに名演だったと思う。
エニグマに関しては・・。
あれを名演だったという声があること自体、この国におけるエルガー需要度を物語っているように思う。
かつて、大野和士の指揮で昔何度も合唱で歌ったことがあるので、彼が演者を感動させるタイプの指揮者だったことを知っている。
だからさぞや楽員を今回もノリノリで導くのかと思っていた。しかし、どうもターネジとルトワスキがあまりにも重すぎてそっちが完全にメインに据えている感じが見え見え。
エニグマでは、テンポ、ディナーミックともに一切何も仕掛けがなく、本当に楽譜を音にしただけという感じ。
尾高忠明や大友直人がよくやるような「溜め」とか「仕掛け」が一切ない。おそらく練習時間もターネジとルトワスキにほぼほぼ取られてしまって解釈を定着させる時間がなかったのではないか?
むしろ大野の中にエルガーに対する愛がそもそもないのではないか?とさえ感じてしまった。
確かに大野のエルガーとはあまり聴いたことなかった。ちなみに演奏時間は28分。ものすごいアップテンポである。
前の2曲も30分ほどの大物、しかも超難易曲なのでエネルギーをすべて使い果たした感じである。
あのプログラム構成で思いっきりワリを喰った上にあの演奏。エルガーがかわいそうだ。
28分のハイスピード演奏、誰の演奏に似ているかなと思ったらハミルトン・ハーティである。
この日のプログラムのターネジとルトスワスキーの作品がともに大作で30分超え。
ターネジの方は日本初演の関係で作曲者を招いてのもの、実際会場に曲席にターネジがおり終演後ステージにも招かれていた。
もともと「初演魔」として知られる大野和士ゆえ、その張り切りようはすさまじく、いつものような凄い熱量での大名演であろう。初めて聴く現代曲というと下手すると退屈してしまうものであるが、一瞬たりとも退屈することなく非常に楽しく聴ける演奏であった。その意味では確かに名演奏だろう。
まさに大野和士の指揮者としての個性と技量が遺憾なく発揮された演奏と言っていいだろう。
ルトワスキーにも全く同じことが言えて、こちらも現代曲ながら緊張感の途切れることのない凄い演奏。
特にスコアを見たわけではないので断言はできないが、オケがトゥッティで同じ音を継続する間、指揮者が一切拍を刻むことなく、コンマスが真剣な表情で指揮者の動作を凝視していたり、あれはおそらく長さに関しては指揮者任せの即興になっていたのではないかと思われる。その緊張感をも表現として客席に見せる・・・あれは大野なりのショーマンシップだっと思っている。
そこまで「仕込み」を前の2曲に仕込んでいたのに、エニグマに関しては一切そういうものが感じられない。
いわば楽譜に書かれた通りの記号をただ機械的に音にしたような印象。
ダメ出しすればいくらでも出てくるが、例えば冒頭の出だしは楽譜でのディナーミックはpとしか書いていない。
しかし、いわゆるエルガー指揮者と呼ばれる人たちは、まるでブルックナーの交響曲の出だしのように深淵から静かに湧き上がるようにデリケートなくらいに静かに立ち上がりを見せる。
あまりエルガーとかを演奏することがない指揮者は、この開始がまるで水道の蛇口をひねって水をジャーっと出すように入ってくる。
まさにそれだったので、最初の一音から嫌な予感。オーマンディなんかもこんな出方をしていた。
それと全体のテンポ。時間を計ったら28分。前の2曲がともに30分超えなのに、メインが一番短い。
この曲の平均は30分前後で、28分の超速演奏はトスカニーニ、ショルティと作曲者の自演くらい。
作曲者の自演が録音事情を考慮せねばならないところであはるが。
大野の演奏は実に飄々と淡泊に進められた。まるで、「あーあ、疲れたからさっさと終わらせて帰ろう」とでも言っているかのようだ。
まだトスカニーニやショルティは見せ場を意図的に作り出すが、この日の大野の演奏にはそれが一切感じられないものだ。一番似ていたのがハミルトン・ハーティの古い録音である。
例えば古今のエルガーを得意とする指揮者たちバルビローリ、ボールト、ヒコックス、C・デイヴィスとか大友や尾高は、ところどころに独自の「溜め」とか「仕掛け」を必ず仕掛ける。それは楽譜には書いていない部分である。
大野の演奏にはそういう意図的な仕掛けが皆無。
それ以外にも、例えばニムロドの最後に最高に盛り上がる部分が最後から4小節目の37番なのであるが、その前にも盛り上がるところが来る。これ曲がメロディアスで感動的なので37番の盛り上がる前の部分で演奏者はつい最高音を出したくなって盛り上がってしまう。同時にテンポも上がり気味になる。そこを指揮者がちゃんと抑制しないと37番の最大のクライマックスが目立たなくなってしまう。これが出来ていない。
曲をよく知らないのか、全く気にしていない(どうでもいいと思っているか)のかどちらなのだろう。
最終曲のEDUにも同じことが言える。ここのコントロールが全く手放しである。
もっとも英国の指揮者でも出来ていない人はいるが、楽譜には書いていないエルガーの心情の表現である。
やればできる実力の大野和士だけに、気持ちがエルガーに向いていないかったのが残念で仕方ない。
なのであの演奏は私の知っている大野和士ではなかった。
「ニムロド」だけでは見えない、大野和士のエルガー
YouTubeに公開された《エニグマ変奏曲》第9変奏「ニムロド」だけを聴く限り、この演奏は決して悪いものではない。むしろ、よく整理され、オーケストラの響きも美しく、旋律も自然な呼吸で歌われている。テンポも極端ではなく、全体として品格を備えた演奏である。
もしこの映像だけを見れば、「大野和士はエルガーも十分に手の内に入れている」と感じる人も少なくないだろう。
しかし、私が当時感じた違和感は、この「ニムロド」単独からは決して伝わってこない。
問題は、同じ演奏会で取り上げられたルトスワフスキやターネジの作品との比較なのである。
それらの作品では、大野はまさに水を得た魚のようだった。作品の構造を徹底的に分析し、複雑なリズムや色彩を自在にコントロールし、現代作品特有の緊張感を生き生きと描き出していた。音楽そのものに対する没入度が、客席にも伝わってくるほどであった。
それに対してエルガーでは、丁寧ではあるものの、どこか性急で一歩引いた印象が拭えなかった。
もちろん完成度は高い。しかし、「この作品をどうしても演奏したい」という切実さや、「この音楽を聴衆に届けたい」という強い意志は、同日の現代作品ほどには感じられなかったのである。
私は以前から、大野和士という指揮者は「好きな作品」と「そうでない作品」で集中力や表現への踏み込み方がかなり変わるタイプではないか、と感じてきた。
これは能力の問題ではまったくない。
むしろ、能力が極めて高いからこそ、その作品への思い入れの差が、そのまま演奏の熱量の差として現れてしまうのである。
だからこそ、逆に大きな期待も抱いている。
もし大野和士がエルガーだけを集中的に取り上げる演奏会を企画したらどうだろう。あるいは、The Dream of Gerontiusのような大作に腰を据えて取り組んだならば、話はまったく違ってくるかもしれない。
彼は作品研究に極めて真摯な指揮者である。一度「この作品を掘り下げよう」と決めた時の集中力は群を抜いている。その資質を考えれば、エルガーの精神世界を深く理解し、これまで誰も聴かせなかったような新しい解釈へ到達する可能性は十分にある。
今回公開された「ニムロド」は、その可能性を感じさせる演奏でもあった。
つまり、この演奏への評価は「悪い」ということではない。
むしろ、「もっとできるはずだ」という期待の裏返しなのである。
大野和士ほどの知性と探究心を備えた指揮者であれば、エルガーを一度本気で自らのレパートリーに迎え入れた時、現在とはまったく違う景色を見せてくれるに違いない。私は、その日が訪れることを密かに期待している。




