遂につかんだ名声

独学とはどういうことを意味するか

一つの考察。
エルガーの生涯を語るエピソードで必ず出てくる話題「エルガーは独学で作曲を学んだ」というもの。
いつもサラっと流されて終わるが、これ、それぞれ自分の身に当てはめて考えてみたらとても凄いことだと言うことがわかるはず。
例えば、楽器の演奏に例えてみよう。ヴァイオリンなりピアノなりの楽器を先生につくことなく独学で学んだとして、コンクール優勝とかその道のトップになれますか?ということである。
その道を究めるには過去に数えきれない多くの先達たちが、気の遠くなるような積みかねで試行錯誤繰り返しながら、最も効率的な方法を見つけ出してノウハウが確立されてきたわけである。その最も効率的なノウハウを知らないで取り組んだ場合、その人は相当な回り道を強いられることになる。これが独学である。
エルガーは本当に独学で少なくとも英国ナンバーワンの作曲家に昇りつめたのである。これも間違いなく天才の領域だと思う。
当時の英国における音楽事情を考えてみよう。
ヘンリー・パーセル以降の200年間、英国には作曲家はおらず突如エルガーの出現によってその空白が埋められた・・・・。
いささかオーバーではあるが、こういう表現がされる。
パーセル以降が空白だったわけではなく、実際にはヨーロッパにおける音楽文化の中心としてロンドンが存在していたわけであり、パーセルからエルガーの間にも多くの作曲家がいた。
ヘンデルはともかくとして、アーン、ベネット、サリヴァン、スタンフォード、パリーなど。確かに彼らが国際的な知名度を誇るか?といえばエルガー以降の話になってしまうのは否めないが。
そんな状況を打破するために英国産の国際的作曲家を輩出するために国を挙げての国家プロジェクトが計画された。
それが英国王立音楽院などの設立である。実際問題このことが後の英国音楽ルネッサンスを本格的にもたらすことになる。
それらのアカデミーには当時英国最高レベルの教育者であるパリーやスタンフォードが迎えられた。
特にスタンフォードの張り切りようは凄まじく、実際に彼の門下となる作曲家たちが華々しく大活躍を果たす。
そんな時にその国家プロジェクトとは何の所縁のないところから突如エルガーが現れたわけである。
当時の英国作曲界ビッグ3だったサリヴァン、パリー、スタンフォードをあっという間に抜き去ってしまった。
スタンフォードはこれが許せなかった。だからスタンフォードは終生エルガーのことを攻撃し続けた。憎悪といってもいいくらいの完全に嫉妬である。

チャールズ・ヴィリアーズ・スタンフォード - Wikipedia

一方、サリヴァンとパリーはエルガーの出現を歓迎していた。特にパリーはエルガーの擁護者となったのである。

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