愛の音楽家エドワード・エルガー

設計図としてのエルガー、愛なき響き ― バレンボイムとエルガーの乖離

バレンボイムの再録音『交響曲第1番』2016年録音

 

1. 技術的・客観的な評価

 

Audiophilia の意見
この録音は「演奏技術の高さやサウンドの質では素晴らしい成果」と評価されている。特に第1楽章のコーダ部やスケルツォの明朗な響きなど、“magical moments” が随所にあると賞賛されている 。

 

Guardian(Andrew Clements)による視点
第1楽章は、ヴァイオリンや弦のトーンがヴァーグナー的余韻を帯び、ポスト・ワーグナー的ロマンティシズムに位置付けられていると指摘。テンポのメリハリ(速いスケルツォ、牧歌的かつ明快な第1楽章など)については賛否が分かれている 。

 

MusicWeb Internationalでも、「コイルされたバネのような躍動感」と「神経質に思える期待感の同期」が第1楽章のドライブ感を生んでいるが、終盤で少し楽曲の統一感が弱まるという指摘あり 。

 

と、このように巷間の評価は高い録音である。
しかし、私の主観的評価は全く異なる。
バレンボイムの演奏から「愛」「情熱」「共鳴」に欠ける印象を受けているという強い実感。
特に「義理で振っているような居心地の悪さ」や「人工的なダイナミクス」「皮相な音造り」という表現には、演奏に込められるはずの魂への接触が欠落してしまっているという深い失望を禁じ得ない。
バレンボイムの再録音は、現代の技術と彼自身の成熟した技法から「期待作」として迎えられた。しかし、演奏には「魂」の息づかいが希薄だったというのが私の率直な感想である。

 

【第1楽章】
 確かなテンポと明朗な音響設計。一方で、「構造を描く絵画」は存在するが、「その絵に描かれた人間の息づかい」は感じられなかった。
Andante, nobilmente e semplice – Allegro (冒頭~コーダ)

 

小節1–31:行進曲風の序奏(Nobilmente 主題)
→ 弦の厚みは豊かだが、nobilmente の高貴さが「儀礼的」に響き、温もりを欠く。

 

小節32–167:アレグロの主要部
→ 細部のアーティキュレーションは鮮やか。ただしクライマックス前の漸進的な昂揚(特に小節120前後)は人工的に感じられる。

 

小節168–270:副主題群と展開部
→ 構造的な把握は明快だが、展開の「うねり」より「設計」が前に出てしまい、音楽がドラマではなく建築図面のように聴こえる。

 

小節271–終結:再現部~コーダ
→ 最後の勝利のファンファーレ的高揚も、感情より「義務感」に根差す印象。

 

【第2楽章】
 静謐さと構造の美はある。しかし、心の深みを照らす光が失われ、詩歌的叙情として「届かない言葉」のままに思えた。

 

小節1–80:推進力ある開始
→ 俊敏さはあるが「精密機械的」で、人間的な揺れや皮肉のニュアンスが薄い。

 

小節81–166:中間部
→ 軽やかな諧謔が「よそゆきの表情」になってしまい、内面的なユーモアが響かない。

 

小節167–終結:再現~コーダ
→ 推進力はあるが、フィナーレに向けての期待感は表層的。

 

【第3楽章】
 技巧と推進力には優れる。けれども崇高な嵐の後に来る「大地の静寂」が描かれず、劇を演じただけの印象に。

 

小節1–80:主題提示
→ 弦は豊麗ながら「心の奥に届く声」が欠如。旋律線が“歌”ではなく“形態”として存在。

 

小節81–150:高揚と緊張
→ 強音の頂点は迫力があるが、そこに至る呼吸の自然さが欠落。

 

小節151–終結:静かな回帰
→ 美しい音色にもかかわらず、心に触れる沈黙や余韻が希薄。

 

【第4楽章】
ここに彼の「お義理」感が露骨に表れる。テンポの不自然さには何を考えているのか理解に苦しむ。
小節1–80:序奏(沈思と問いかけ)
→ 遅いテンポは構築的だが「ため息」ではなく「硬直した間」と聴こえる。

 

小節81–240:アレグロ主部
→ 力強さは十分だが、楽想のドラマが一本調子に処理される。

 

小節241–350:展開的高揚
→ 輝かしいオーケストラサウンド。ただし感情の有機的な流れより「外側の壮大さ」が強調される。

 

小節351–終結:勝利の帰結(Nobilmente 主題回帰)
→ エルガーが意図した「人間愛の讃歌」ではなく、記念碑的で義務的な響きに聴こえる。

 

 

昨今、アマチュアオケや地方の無名オケによる同曲の演奏も多く、それらは近年のレベルの底上げを反映して素晴らしいものが多い。しかし、彼らよりもはるかに知名度も実力も上回るダニエル・バレンボイムの演奏はやはり感動もないし愛も感じられない。彼が過去に犯した「デュ・プレへの不誠実な振る舞い」はタトゥーのごとく消えることがなく、何をどうやってもついて回る。その意味ではバイアスがかかってしまって気の毒であるが、いかんせん本人のエルガー愛の欠如が圧倒的に音に現われてしまっている。皮相な音の造り、わざとらしい人工臭ただようディナーミック。何よりも彼自身がエルガーを取り上げる時の義理感みたいな居心地の悪さ。どうひいき目に聴こうとしてダメだ。ライターとして失格と言われたら甘んじて受け入れる。しかし、それでもやはり、バレンボイムのエルガーは嫌いだ!としかいうことができない。
 技術と構造だけが揃っても、「愛」が宿らなければ、エルガーはその本質を露にしない。バレンボイム盤には、その迷いが音に刻まれてしまっている。この「嫌い」という言葉は、単なる否定ではなく、エルガーと音楽の根源的な接点を求める切なる願いの表れと理解できる。
バレンボイムはスコアの構造を緻密に読み、音響的に壮麗な成果を上げている。しかしエルガーが本来込めた「温もり」「愛」「人間的な息吹」は後景に退き、義務的・儀式的な性格が前面に出てしまう。構造の理解と技巧の高さが逆に「魂の不在」を際立たせた録音である。

 

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