ユリア・フィッシャー × ペトレンコ ― エルガー協奏曲を普遍化する透明な歌
エドワード・エルガー:ヴァイオリン協奏曲 ロ短調 作品61(ラジオ生放送録音)
ユリア・フィッシャー(ヴァイオリン)|バイエルン国立管弦楽団|指揮:キリル・ペトレンコ
2015年10月6日 ミュンヘン国立劇場にて収録/ラジオ放送:BR-Klassik - バイエルン国立管弦楽団アカデミーコンサート|2015年10月6日
Ⅰ. 演奏全体の印象
エルガーのヴァイオリン協奏曲(1910)は、同時代の大作──シベリウス、チャイコフスキー、ブラームスと並ぶ規模を誇りつつも、より 内面的・懐古的・叙情的 な性格を持つ。
ユリア・フィッシャーはエルガー専門家ではないが、この作品において彼女特有の 純度の高い音色、温かい歌心、感情の均衡感覚 が強く活きており、ペトレンコとバイエルン国立管は透明で精緻な響きでそれを支えている。
Ⅱ. 各楽章ごとの特徴
第1楽章 Allegro
作品全体の中で最も壮大かつ堂々たる部分。
フィッシャーのヴァイオリンは力強さよりも 気品ある抒情 を重視。アタックは鋭すぎず、むしろ柔らかく「語る」ように音を出す。
ペトレンコはオーケストラの縦横を明晰に保ち、音の流れを 建築的に構築。この両者のコンビにより、主題の反復が単調に陥らず「物語の広がり」として展開される。
1–24(序奏)
オケの重厚な和声提示。
→ ペトレンコは低弦の響きを締め上げ、柔らかくも緊張感を伴う。
25–48(主題提示)
ソロ登場。フィッシャーはスピント(明るく芯のある発音)で「呼びかけ」のように。
→ vibratoは浅く、透明な音。
103–147(第2主題)
甘美な旋律。
→ フィッシャーは vibrato を増し、音色を 温かく溶かす。
ペトレンコは弦を柔和に支え、明暗のコントラストを抑制。
201–280(展開部開始)
動機が対位法的に展開。
→ フィッシャーは鋭さを増し、弓圧を強めて緊張を生む。
ペトレンコはここでオケを突如強め、建築的なドラマを作る。
351–400(再現部前後)
音楽が収束に向かう。
→ フィッシャーは再び透明な音色に戻し、懐古的な響きに。
ペトレンコは呼吸を大きく取り、回想の空気を作る。
第2楽章 Andante
この協奏曲の「心臓部」。エルガーの最も内面的な歌。
フィッシャーは vibrato を控えめにし、透明感のある音色で「内に向かう抒情」を描く。過剰な感傷を避けるあたりにドイツ的な精神の響きがある。
ペトレンコの伴奏は非常に繊細で、弦のピアニッシモの上に独奏が浮かび上がる瞬間は、映画のワンシーンのような 静謐な親密さ を感じさせる。
1–16(静かな序奏)
オケの静謐な和声の上にソロが浮かぶ。
→ フィッシャーは vibrato をほとんど抑え、ガットのように澄んだ音。
ペトレンコは極度にデリケートなppで支える。
49–104(歌の展開)
旋律が深まる。
→ フィッシャーは音に「温度」を加え、表情を 親密な語りに。
ペトレンコは弦をふくらませるが決して厚塗りせず、対話性を保持。
145–200(クライマックス)
全曲中でもっとも情熱的な歌。
→ フィッシャーは豊かな vibrato をかけ、響きを広げる。
ペトレンコは金管を強調せず、弦合奏を前面に。
(結果:壮麗だが透明感を失わないクライマックス)
201–end(静かな終結)
→ フィッシャーは音を極限まで細くし、消えゆく語りへ。
ペトレンコは呼吸を止めるように間をつくり、楽章を閉じる。
第3楽章 Allegro molto
技術的にも精神的にも最も要求の高い楽章。
フィッシャーは超絶技巧を「闘争的」ではなく「清冽な舞」として奏で、随所で浮かぶ主題の回想を「物語の再生」として示す。
特に終盤のカデンツァ風エピソードでは、彼女の集中力が凄まじく、時間の流れが止まったように感じられる。ペトレンコはそこを巧みに受け止め、最後の華やかな全合奏へと橋をかける。
1–80(快活な主題提示)
→ フィッシャーはリズムを鋭く刻み、音色を「明るい鉄弦」のように。
ペトレンコはテンポを前へ押し、推進力を与える。
150–230(技巧的展開部)
→ フィッシャーは弓を強め、音にスパーク感を与える。
ペトレンコは伴奏の動機を際立たせ、劇的コントラストを作る。
330–420(カデンツァ風エピソード)
オケが薄まり、ソロが内省的に回想。
→ フィッシャーは vibrato をほぼ消し、無伴奏のモノローグのように。
ペトレンコはオケを極限まで抑え、「時間停止」の空気を作る。
480–終結(華やかな終曲)
→ フィッシャーは音を解き放ち、輝かしい音色へ。
ペトレンコはオケをフルに鳴らしながらも、最後の和音を透明に収束させる。
Ⅲ. ユリア・フィッシャーとエルガーの「接点」
彼女はロマン派協奏曲においても「叙情の均衡」と「音色の純度」を重視する奏者であり、エルガーの濃厚な感傷を「透明化」することに成功している。
結果として、この協奏曲が「後期ロマン派の濃厚さ」ではなく「ドイツ的抒情詩」として響いている。
これは、エルガーを英国的・田園的イメージに縛らず、ヨーロッパの普遍的レパートリーとして提示した、非常に意義のある解釈である。
Ⅳ. 総括
ペトレンコの指揮は「建築的な透明感」、フィッシャーの独奏は「純度の高い歌」。この二つが結びついたことで、エルガーのヴァイオリン協奏曲は「英国音楽」ではなく「ヨーロッパ音楽の正統」として響いた。
感傷に溺れず、それでいて冷たすぎない。まさに 20世紀の古典としてのエルガー を体現した演奏といえる。
フィッシャーは音色の純度変化(透明 → 温かい → 再び透明)を物語的に構築することに成功している。
ペトレンコはオケを「厚塗り」せず、明晰さを保ちながら劇的場面を彫刻するかのように仕上げている。
結果的にエルガーをロマン派的濃厚さから解放し、透明な精神ドラマに仕立てたといえるだろう。