ウッド・マジック・・・最大の悲しみ

愛の音楽家エドワード・エルガー

演奏評における精神論~エルガー/チェロ協奏曲

楽譜の発明というのは本当に凄いことだと思う。
これがあるからこそ、我々は何百年前とか、ことによると何千年前とかに作曲された音楽を再現できるのであるから。
作曲家が楽譜に刻むのは単に音の再現という記号だけではない。
そこには記号化できない情念というか魂のようなものまでをも込めることさえある。

 

古来から言霊という言葉がある。言葉の中には実は「念」が込められており、文字だけの存在ではなく、その言葉を音声にしたり文字化することによって「念」というか「魂」をも活性化させることができる。
古代の人々は、モノや文字、記号に念がこもることを知っていたのではないか?
それが宗教儀式などに使われる偶像やマントラのような呪文として今も伝え残っているのではなかろうか?

 

楽譜にもこれと同じことが言えると思っている。そこには音の再現という機械的な記号だけでなく作曲者が込めた心情、情念、想いが込められていると思う。
さらに、優れた演奏家、あるいは作者と同じ周波数帯を持つ演奏家が曲を再現した場合、その情念をも描き出すことができると思う。
それだけでなく、その音楽作品には、その演奏者の強い想いをも加算されていくものだと思う。

 

長い年月を経て演奏伝承されるクラシック音楽は特にそういうストーリーをバックボーンとして持ちやすいものがある。

 

演奏する者だけの問題ではない。演奏をレビューする執筆する立場の者もそういう念をキャッチすることも少なくない。

 

評論にそういった記号化できない情念・・・というか精神論を最初にクラシック評論に持ち込んだライターは宇野功芳氏ではなかろうか?
最初に彼の評論を読んだ時は衝撃的ですらあった。
「クラシックの評論でこんなこと書いていいのだろうか?」

 

自分も文筆活動をするに際して氏の評論には大いに影響を受けたものだ。
私の場合、クラシック音楽の文筆に入る前に、学生時代からプロレス雑誌のライターに物凄い影響を受けていた。
それは週刊ファイト紙の井上義啓編集長や週刊プロレス誌のターザン山本らの文章の影響をモロに受けて、彼らのマネをして文章を組み立てたりしていた。
宇野氏と山本氏の共通点は、評論に精神論を持ち込んでいたことである。

 

たぶん、実践する側・・・・この場合プロレスラーや演奏家になるのだが、彼らにすれば異論があるところだろう。
「なに勝手なことを書いているんだ!?」
実際、井上氏も山本氏も宇野氏もプレイヤーからの評判はすこぶる悪かったのは事実である。

 

しかし、それはそれで許容してよいものだと個人的には思っている。

 

プロとして、観客に対してギャラという対価をもらって作品をリリースした以上、その後はリリースしたものは受け手の持ち物になるからである。
持ち主なら、それをどう解釈しようが料理しようが勝手なのであるから。
言い方を変えれば、文句を言われようが何しようが、受け手に対価を払わせてリリースしたものを受け取らせたのなら、それはリリースした者の勝ちである。
どう言われようと気にしなければいいのである。
そういう意味からも私は評論に精神論を持ち込むことに対しては賛同者の立場である。

 

私は、演奏する立場でもあるし評論する立場でもある。なので自分の演奏を評論することもできる。
しかし、演奏者としては、自分の書いた評論には納得いかないであろう。演奏家としての自分は、ライターとしての自分の評論に対して、多分物凄くムカつくと思う。でも、それで良いと思っている。

 

そこで取り上げたい演奏がこれ。

 

エルガーのチェロ協奏曲。
しかも、ジャクリーヌ・デュ・プレにとっては最後のエルガー演奏になったライブ録音。
1973年2月8日にズービン・メータの指揮でニュー・フィルハーモニー管弦楽団との演奏。
デュ・プレにとってこの曲は代名詞とさえなっている曲である。
バルビローリと組んだ録音が3種類、バレンボイムと組んだ記録が2種類、サージェントと組んだ録音が1種類、そしてこのメータとの録音が1種類。
現在確認できる記録はこのようになっている。

 

この演奏はラジオ放送されたもので、この演奏に関しても様々なエピソードがある。
ズービン・メータ曰く。
「どんなオーケストラの大音量をしても彼女のチェロの音を一小節たりとも消すことができなかった」
たしかに、くっきりとした音の幹。温かい音色に迷いのない推進力。
あのデュ・プレの音である。
「ジャクリーヌ・エッジ」と呼ばれる彼女ならではの鋭い弓の返しといい、凄い表現力と情念である。

 

しかし、この放送を聴いたジャッキーの母親が娘の演奏に異変を感じたそうだ。
それがどこがどうなのかは具体的にはわからない。聴いてみてもそれがどこなのかを見つけることはできなかった(もしかして第3楽章始めの音が少し揺れる部分か?)。
しかし、ご承知のように彼女はその直後、病に倒れ楽器を演奏することができなくなってしまった。
悲劇のエピソードが付きまとう、この曲にまたしてもつきまとう不吉な兆候・・・・。
「最後だからこそ」の輝きを感じ取ることはできないだろうか?

 

そんなエピソードを知ってこの曲を聴くのと、知らずに聴くのではレビューが変わってくるのは当然ではなかろうか。
まさしくこの演奏には、目に見えぬ「何か」を放出している。
それを傍受するには上記のエピソードを知るか知らないかによっても変わってきてしまうのは間違いない。
ちなみに商業録音としては海賊盤ディスクで一度出回ったものの、その後正規発売されることもなく、現在は入手が困難なようである。

 

この録音は、それ自体が曰く付き案件というか、事故物件というべきか、一つの呪物、あるいは心理的瑕疵案件というか、そういうものが乗ってしまっている。ちょうど1938年録音のブルーノ・ワルター/ウィーンフィルによるマーラー交響曲9番のライブ録音のケースに似ているかもしれない。
この名演奏が全く正規リリースされる様子がない理由というのはそういうことなのか?とも思いたくなってしまう。
逆にワンチャン、ジャッキーの幽霊なら会いたいかも。夜な夜なジャッキーの幽霊が現れてチェロを奏でる・・・それって考えようによっては最高ではないか。それ、ジャクリーヌ・デュ・プレの生演奏である。どれだけプレミアムチケットとなることか!
冗談はともかく、そういうものを「もらいやすい」電波体質の方はこの演奏の視聴に関しては自己責任でお願いしたく思う。

 

Jacquline Du Pre last Elgar Concerto

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