《威風堂々》第6番

エルガーの音楽における儀式性――形式、象徴、構造の重層性

エルガー(の作品には、しばしば「儀式性(rituality)」と呼ぶべき性格が宿っている。それは、単なる荘厳さや格式の高さに留まらず、音楽的構造、旋律の象徴性、演奏上の振る舞いにまで及ぶ包括的な形式性であり、エルガー芸術の中核をなす要素の一つである。いくつかの代表的な作品を取り上げながら、その儀式性の諸相を具体的に探る。

 

1. 《ゲロンティアスの夢》における典礼構造と「三重のアニマ」

エルガー自らが「Best of me」と語ったオラトリオ《ゲロンティアスの夢》(1900)は、カトリックの臨終儀礼と煉獄思想に基づく霊魂の旅を描いた宗教的作品である。全体は二部構成を採るが、その中に三重の霊魂的存在(天使=Angel、霊魂=Soul、霊魂たち=Animi Christi)という象徴的なトリニティが内包されている。これはキリスト教的構造を超えた擬似典礼的三位一体の音楽的表現とも言えよう。

 

特筆すべきは、冒頭の厳粛な祈祷、第二部の審判前の静寂、煉獄への受容などにおいて、音楽の時間が宗教的時間へと変容する点である。そこには演奏者・聴衆双方が参加する仮想的な儀式が浮かび上がる。音楽の「出来事」としての側面が、聖性を帯びた体験へと昇華されるのである。

 

そして、同曲に埋め込まれた12という数字が重要な役割を担うキーナンバーであることも触れた通り。

 

2. 《交響曲第3番》第4楽章における交代制的「配役」

アンソニー・ペインによって補完された《交響曲第3番》(1998初演)の終楽章では、交互に現れる儀式的ファンファーレと葬送行進風リズムとの間に、劇的とも言える「交代制」が観察される。この楽章は、エルガーの意志を汲みながらペインが見事に完成させた、まさに儀礼的構築物である。

 

ここには仮想的な「登場人物」が存在する。冒頭ファンファーレはエルガー本人の登場を象徴し、その後に続く勇壮な主題(「アーサー王的」)はペインがエルガーの精神を託した英雄像である。そして、葬送的な6/8拍子のリズムは、荷馬車(The Wagon Passes)のように、死の儀式の静けさと必然性を運ぶ。このように各モチーフに役割が割り振られ、音楽全体が通夜あるいは英雄の葬送という儀式の一部を構成しているのである。

 

3. 《ファルスタッフ》における音楽劇化と追悼

交響的習作と銘打たれた《ファルスタッフ》(1913)は、シェイクスピア的喜劇性と悲劇性が同居する作品であるが、終盤にかけては明白な儀式性の兆候が強まる。特に「夢見るファルスタッフ」から「死と葬儀」へ至る過程は、エルガー独特の死者への黙礼的構成として読み解くことができる。

 

ここでは音楽が語り部となり、登場人物が儀礼的に演技し、最終的には観客(聴衆)自身が**「追悼者」として儀式に参与する構造**が浮かび上がる。しかも、その演出はオペラの舞台効果とは異なり、純粋器楽的な力によって遂行される。儀式の力を最も抽象的な形で表現した例である。

 

4. 《The Spirit of England》における国民的葬儀と音楽的祈祷

第一次世界大戦を背景に作曲された《The Spirit of England》(1917)は、イギリスに殉じた若者たちへの追悼と国家的悲哀を音楽化した作品である。中でも第3曲〈For the Fallen〉においては、亡き兵士たちへの集合的レクイエムが展開される。ここでは音楽が個人の嘆きから離れ、国家的祈祷の装置として機能する。

 

特筆すべきは、「彼らは老いることがない(They shall not grow old)」という句に続く静謐な伴奏とコラール風の和声進行であり、これは明らかに儀式的誦唱を模した構造である。ここにもエルガーは音楽をして宗教や国家的儀礼の代理を務めさせ、聴衆を集団的沈思へと導く。

 

5. 《威風堂々》と「希望と栄光の国」に対する葛藤

しばしば「第二の国歌」と呼ばれる《希望と栄光の国》は、政治的・国民的象徴としてエルガーの名を知らしめた。しかしその背景には、作曲者の芸術的良心と政治的要請との間に生じた深い葛藤があった。

 

1931年、EMIスタジオ落成式で《子ども部屋》組曲の一部を録音する予定だったエルガーは、メディアの意向で《希望と栄光の国》を強引に録音させられた。不本意な選曲変更にエルガーは憤慨しつつも、コートを脱ぎながら指揮台に立つ「到着演出」を強いられる。映像に映る彼の疲れた口調と態度は、まさに形式だけの儀礼が内実を欠くときの虚しさを映し出している。

 

この事件は、音楽が儀式へと変質し、さらに国家的消費へと利用される過程において、エルガーが抱いた矛盾と悲しみを象徴するものである。

 

結論――儀式性とは何か

エルガーにおける「儀式性」とは、単なる荘厳さや格式にとどまらない。時間、登場人物、象徴性、聴衆の参加構造、死と祈りの想起といった複数の要素が重なり合う、重層的な構築物である。それは聴衆に特定の感情を喚起するための効果ではなく、音楽自体が一つの儀式となることを目指した芸術的達成である。

 

エルガーは儀式の音楽を書く作曲家であっただけでなく、音楽を儀式へと変質させる芸術家であった。その意味で、彼の作品群は未だ十分に「読むべき典礼書」としての価値を保っている。

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